三ケ所の笠狭宮阯

私の住んでいる霧島市隼人町宮内は、彦火火出見尊の高千穂宮があったとされるところだ。そして、私の出身地の南さつま市加世田は、瓊瓊杵尊の笠狭宮があったとされる。個人的な想いに過ぎないのだろうが、こうしたことに、かねてから不思議な縁があると思っていた。

ところで南さつま市には、瓊瓊杵尊が宮居とした笠狭宮阯とされるところが三ケ所ある。一ケ所は高屋ケ尾麓の川畑舞敷野、もう一ケ所は宮原(竹屋神社)で、こちらは瓊瓊杵尊が舞敷野から遷都した場所と伝えられている。もう一ケ所は笠沙町宮ノ山である。

舞敷野の笠狭宮阯

竹屋神社の笠狭宮説明碑

宮ノ山の笠沙宮説明碑

古事記には、天照大御神、高木神の命により、高天原から葦原中国(地上)に下りてきた瓊瓊杵尊が統治にふさわしい所を探していたところ「韓国(からくに)に向かい往き通うのに適した笠紗の御前で朝日が直接差し、夕日が明るく照らす良い所」に行き着いて、そこに「地の底の岩に太い宮柱で天にも届く千木のお宮を建ててお住まいになられた」というようなことが記されている。また、日本書紀には「瓊瓊杵尊が、吾田の長屋の笠狭之崎に着かれ、長屋の竹嶋に登られた」というようなことが記されている。

笠紗の御前は笠沙の岬、吾田は阿多、長屋は現在の南さつま市一帯、旧加世田郷とされていたようで、宮居の址など瓊瓊杵尊に関する言い伝えが各地に残っている。

ところで、鹿児島県は二千六百年記念事業として県内の皇祖や神武天皇に関するものを調査して、昭和15年(1940年)に史蹟に指定している。

この二千六百年記念事業による指定については、昭和15年に当時の鹿児島史談會会長の岩元禧氏が地域の郷土史研究家などの協力を得て著した「皇祖発祥聖蹟」が密接に繋がっているように見える。その中で、川畑舞敷野の笠狭宮阯については「①古来からこの舞敷野の御座屋敷が笠狭宮遺跡であると伝わっていること ②背後の竹屋ケ尾からは一帯を俯瞰でき、防御などに適していること ③笠沙の岬からここまでの経路に種々の伝説が残っていることなどを挙げ、ここが皇大宮の始まりであったとしている。

また、宮原(竹屋神社)については「①此処に舞敷野から宮居が移されたという古来からの伝説があること ②外戚大山祇神の住居阿多と一体的地形で、河口船着場に近いことなどから、舞敷野から宮居が移されたのは確実であろうと記している。

一方、もう一ケ所の宮ノ山については、形勢が定まり宮居の地が固まるまで瓊瓊杵尊が駐蹕した地であり、宮居ではなかったとしている。

実際、宮ノ山の案内碑には「神代笠沙宮の古址と伝えられる」とあるが、山上の石碑には「瓊瓊杵尊駐蹕之地」と刻まれている。(碑では蹕が馬偏になっているが・・)

なお、紀元二千六百年記念事業により鹿児島県が皇祖や神武天皇に関するものを史蹟に指定したのは昭和15年11月10日付けであるが、①舞敷野は「神代瓊瓊杵尊宮居址(前ノ笠沙宮)」 ②宮原は「神代瓊瓊杵尊宮居址(後ノ笠沙宮)」で、いずれも宮居址であるのに対し、③宮ノ山は「神代聖蹟笠狭之碕瓊瓊杵尊御上陸駐蹕之地」となっており、皇祖発祥聖蹟と符号している。

こうしたことから、笠狭宮阯は舞敷野と宮原の二ケ所と見るのが妥当と思われる。

笠狭宮阯とは少し外れるが、私の出身小学校、川畑小学校の校歌の出だしは「緑も深い竹屋ケ尾」である。

竹屋ケ尾は、南さつま市南九州市の境界の標高271mの丘山である。

この竹屋ケ尾には、瓊瓊杵尊妃 木花開耶姫が火の中で火照命=海幸彦=隼人の祖先、火須勢理命火遠理命=山幸彦=彦火火出見尊の三皇子を出産されたと伝わる場所がある。

古事記に、瓊瓊杵尊大山祇命の娘、木花開耶姫と結婚したが、一夜の契りで身重になったことから自分の子供ではない、国津神の子供ではないかと疑ったという話がある。

この疑いを晴らすため姫は、戸のない産屋を作り、そこに火を付けて三皇子を産んだ。火が点いてすぐ産まれたのが火照命、燃え盛る中で産まれたのが火須勢理命、そして火の勢いが弱まって消えそうな時に産まれたのが火遠理命だ。出産の時姫は、へその緒を竹の切り口で切って、切れたらその竹を地面に突き刺した。それが芽吹いてやがて竹林になったと伝えられている。私が幼い頃には、突き刺した形、逆さに笹が生えていると

言われていたが、今度行った時には、そこの竹林に逆さ竹は見当たらなかった。

笹の向きが地面に向いていると言われていたが・・。

また、山頂には「神代聖蹟竹屋」の碑がある。二千六百年記念の碑で、鹿児島県の史蹟に指定されている。隣に大正4年11月建立の大勲位侯爵 松方正義による「彦火火出見尊御降誕之地」の碑があることから、これが指定理由だと思われる。

なお、竹屋ケ尾の山頂には以前、三皇子を祀る神社があったそうだ。

万之瀬川の支流に大谷川がある。この川の名称は昭和初期までは神事川(しすごかわ)だった。神事のいわれについて、川畑郷土誌には、竹屋ケ尾の山頂の神社の祭りの時、この川で身を浄めたからだと記されている。

名神事川の井堰

竹屋神社由緒記などによると、この神社が遷宮したのが竹屋神社だそうだ。

竹屋神社の御祭神は、中央本宮が彦火火出見尊(山幸彦)、東宮が火闌降命(火須勢理命)、西宮が火明命(火照命)である。このように三皇子が祀られている社は珍しいのではないかと思う。また、瓊瓊杵尊が祀られていないというのは不思議に思う。

ただ、加世田は彦火火出見尊に重きが置かれているように思う。竹屋ケ尾には彦火火出見尊御降誕之碑がある。竹屋神社の主祭神彦火火出見尊である。そして、ここには彦火火出見尊の御陵とされる磐境もある。