鹿児島神宮の初午祭

鹿児島市のおはら祭り、曽於市の弥五郎どん祭りとともに、鹿児島の三大祭りの一つである「鹿児島神宮の初午祭」が、令和6年は3月3日の日曜日に行われる。

祭りの主役は、多くの鈴が連なった胸飾り、花や錦などで飾った鞍を着け、ステップを踏みながら踊る馬。鈴を懸けて踊ることから「鈴懸馬」と呼ばれる。参加する馬は、農耕馬やポニーで十数頭だ。

この馬を先頭に、数十人の踊り連が太鼓、鉦、三味線の賑やかな伴奏で「せっぺ跳べ跳べ八幡馬場よ、鳥居にゃお鳩が巣を掛ける」「踊れ踊れ踊れば花じゃ。踊らな損じゃ」と、ハンヤ節のようなテンポの速い唄に合わせて踊りながら参道を進んでいく。

祭りの日は、参道だけでなく、県道も一部区間歩行者天国となり、多くの出店が並ぶ、例年20万人が繰り出し、蟻の隙間もないような大賑わいとなる。

ところで、伏見稲荷大社など各地の初午祭は2月の最初の午の日に行われるが、鹿児島神宮の初午祭は、旧暦の最初の18日に近い日曜日に催される。その日が今年、令和6年は3月3日だ。これには、初午祭の発生説話が関係している。

初午祭の発生説話で良く言われているのが霊夢起源説である。

今から450年以上前の天文年間、室町時代末のことである。戦乱で大隅八幡宮(現鹿児島神宮)が焼け、再建工事がなされていた。その時、神官桑幡道延家に泊まっていた島津氏当主島津貴久の夢に馬頭観音が現れ「この地にわれを祀り、一堂を建立してくれると守護神となって、この国の馬を守ってやろう」とのお告げがあった。このことを桑幡氏と居合わせた日秀上人という僧に話したところ、二人とも同じ夢を見たとのこと。「これは尊いお告げ(霊夢)に違いない」と日秀上人が早速、馬頭観音像を彫り、獅子之丘の正福院観音堂に祀った。それより地域の人々は夢の縁日、旧1月18日を祭日とし、牛馬の繁盛や農作物の豊穣を願い、馬を連れ、この観音様にお祈りし始めた。そのうち、次第に踊りや囃子が付き、馬や人が踊るようになった。これが初午祭の始まりとされている。

その後、明治の廃仏毀釈で、獅子之丘正福院観音堂が壊され、馬の参詣も出来なくなってしまったことから、鹿児島神宮末社、宮内辻の角の保食神社に参詣するようになり、概ね現在の形のような祭りとなってきた。

霊夢にちなみ、地元では初午祭で踊る馬のことを「十八日の馬」と呼んでいる。「十八日の馬」は、霧島市の無形民俗文化財に指定されている。

無形文化財指定を記念した奉納木馬(鹿児島神宮境内)

発生説話として言われているもう一つは、御神馬説である。

姶良市加治木町木田は、鹿児島神宮と関係の深い地である。

中世、加治木郷は大隅八幡宮の荘園のうちで「御馬所検校」もいた。ところが、戦乱により、大隅八幡宮の荘園は武士領主に奪われ、戦国末期にはほとんど消滅してしまった。そして、最終的に加治木を治めたのが島津氏である。

島津氏は大隅八幡宮を保護し、加治木に所領を与えた。こうしたことから、正八幡宮領の農民は、江戸期に正八幡宮の神事では、御神馬に米や塩を背負わせて奉納していた。それが、ある時期から御神馬を美しく飾り、住民が三味や太鼓で踊りながら参詣するようになったのが「馬踊り」だともされている。

現在の初午祭は、旧大隅八幡宮の社家であった留守家跡にある保食神社での神事から始まる。この神事に参加するのは、初午祭実行委員会の関係者や神宮総代などで、馬踊り参加者は木田地区だけだ。

木田の神馬だけが神事に参加し、一番に踊り始める

神事が終わり木田の馬が踊り始めた後、他の馬は辻の角の保食神社でお祓いをうけ、踊り連と踊り始める。

祭りの開催日が基本旧暦1月18日であることや木田の馬が神馬、一番馬であることなどをみると、初午祭の起こりには、二つの説話が融合しているように思える。

春の訪れを告げる祭りとして大賑わいをみせる鹿児島神宮の初午祭だが、大きな課題も抱えている。参加する馬に苦労しているのだ。

戦後暫くは100頭以上だった参詣馬数が、ここ数年は10数頭になっている。馬の種類も、元々は農耕馬だけだったが、その確保が困難になりポニーが増えてきている。また、高度の熟練を要する調教の出来る人が少なくなっている。

このため、初午祭実行委員会や木田の人々などが、何とかこうした状況を改善し、祭りを盛り上げようと努めているという状況だ。

鹿児島県では、鹿児島神宮の初午祭の鈴懸馬が伝搬し、姶良市の「帖佐十九日馬踊り」など各地の祭りに伝承されている。各地のこうした馬踊りが「薩摩の馬踊りの習俗」として、平成14年(2002年)に記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に指定されているが、この指定もこうした課題を受けてのものではないかと思う。

<参考>霧島市及び姶良市HP、国指定文化財等データベース、霧島市シルバー観光ガイド養成研修テキスト