宮内は田の神の空白地帯?

霧島市隼人町宮内の原集落に持ち回りの田の神像がある。大小様々、写真の5体は石像だが、他に木像が2体あり、七つの班がそれぞれの中で持ち回りしている。残念ながら、製造年や由来などは不明である。

私たちがこの原集落の田の神像のことを知ったのは、最近のことである。それまで私たちは、鹿児島神宮周辺地区は田の神像の空白地帯と思い込んでいた。

鹿児島神宮神領内に田の神像がある。高さ91cm、大きなシキ(蒸しき)を被り、右手にメシゲ(しゃもじ)左手にお椀を持った農作業姿神舞型の田の神像で「宮内の田の神」として県の有形民俗文化財に指定されている。背面には「奉寄進、天明元年(1781年)辛丑九月吉日、正八幡宮 田神 沢五右衛門」の刻銘がある。

毎年、旧暦の5月5日に近い日曜日には、鹿児島神宮御田植祭が催行される。祭りでは、この田の神像の前に祭壇が飾られ、田の神に扮した神職が田の神舞を奉納する。

その後、宮内小学校の児童や早乙女、早男が田植えをする。

田植えには、近在の集落ごとの植え場がある。そこでは、トド組と呼ばれる集落ごとの集団が田歌を合唱し、それに合わせながら田植えが行われる。

トド組とは何か。民俗学者の下野敏見氏は「トドは田堵、トド組は八幡神領耕作民の伝統をひく農民たちの組織」と著書の「南日本の民俗文化誌」で説明している。

霧島市隼人町宮内周辺は、嘗ては大隅八幡宮(現鹿児島神宮)領だった所である。即ち、近在の元大隅八幡宮の農民は「宮内の田の神」に豊作を祈願してきたということになる。こうしたことから私たちは「大隅八幡宮耕作民の田の神は『宮内の田の神』だから鹿児島神宮周辺の集落には田の神像は必要なかった」という思い込みがあった。だから、原集落の田の神像を知った時、とても驚いた。

更に調べてみると、原集落以外、朝日など一部の集落にも田の神がある(あった)ことが分かって来た。鹿児島神宮周辺、宮内は田の神の空白地帯というわけではなかった。

原集落などに田の神像があることが分かったことはとても嬉しいことだったが、一方では、田の神像や田歌を保存継承していくための、この地域特有の難しい課題があることも分かってきた。

戦後の高度成長期の中、地方から大勢の若者が都会へ転出して行った。これは、鹿児島神宮周辺の地域も同じだった。ところが、その後国分、隼人地区には京セラ、ソニーなどが進出してきて、そこで働く人などが転入、新しい住宅がたくさん出来た。それにより、この地域の集落では住民の過半数、一部では8~9割が他地区からの流入者という状況になっている。宅地に変わった田地も多く、高齢化と相まって農家人口は著しく減少してきている。その結果、田の神に関心を持つ人や田歌を保存継承できる人も少なくなってきている。

以前は、田歌を歌うのは数え年15歳~25歳までのニセだった(下野敏見氏著)。ところが、今はどのトド組もほとんどが70歳以上、それに農家でない人を加えながら成り立っているというのが実情だ。

オーホオーオーホオーホーホオーホオーホーホオーホオーオーエーヘー

ミゴオーホオーホーオーホーホオーホオホーーハアー

ーヒイーハアーノオージヨオーホホー

トド組のが歌う田歌は集落ごとに違うが、これは、原地区の田歌の一部で「上げ」と言われている部分である。多分、この歌を聞いて何を言っているのか分かる人はいないだろう。ほとんどは囃子言葉で、赤字部分が歌詞のようである。「もののみごとはよしだのじょおか」と歌っているようである。この歌詞部分だけを取り出しても中々意味が分かりにくい。「物の見事は吉田の城か」と読めそうだが、そうすると吉田の城とはどこなのか。原集落の人に聞いても分からなかった。

下野敏見氏によると「田歌の内容は、神社参拝から田植、生育、収穫の過程を歌った叙事詩」だそうだが、そう説明されても中々分からない。

これを独特の節回しで歌う。それを集落に移住してきた人たちに歌ってもらわなければいけないのだ。また、田の神の持ち回り当番は班長が担うそうだが、農家でない人、しかも元々地元でない人も班長になることが多くなってきている。疑問に思っている人がいるのも仕方ないと思う。

こうした中で、集落の長老などが転入してきた人たちに声掛けしながら理解を求め、田の神像の持ち回りや田歌の継承に努めている。大変なご苦労だと思うが、そうした努力によって、地域の貴重な伝統文化が何とか繋がっているというのが現状だ。