南薩線

かつて、薩摩半島西側、日本三大砂丘吹上浜沿いを縦走していた鉄道があった。私鉄線の南薩鉄道(通称南薩線)である。

南薩線が開通したのは大正3年(1914年)のこと。鹿児島本線(当時は川内線)の鹿児島県内での開通は、鹿児島駅東市来間の大正2年(1913年)。これからしても、南薩線の開通がいかに早かったかが分かる。

それから70年間、地域の足として、物流の柱として重要な役割を担っていたが、今から40年前の昭和59年(1984年)に廃止された。

南さつま出身の私には、懐かしい想い出が多々あるこの鉄路の跡を巡ってみた。

上日置駅

南薩線の廃線跡で最も趣が残っているのは、上日置駅だろう。駅舎は壊され、鉄路も撤去され、ホーム跡と給水塔が残るだけだが、駅跡の雰囲気が漂う。

上日置駅跡

上日置駅の案内板

旧上日置駅と旧日置駅の間は急な坂だった。南薩線にディーゼルカーが導入される前、蒸気機関車の頃の話だが、雨が降ると車輪が空回りする。機関車には砂袋が積み込まれており、車掌が線路に砂を撒いて、やっとのことでその坂を登っていた。列車は、何時もほぼ満員。乗客たちは、機関車のシュッポ、シュッポ、シュッポが「ぜんな とっどん なさんこっじゃ(金は稼ぐけど難儀なことだ)」と嘆いているように聞こえると囃し立てたものだった。下りて小用を足す乗客もしばしばだった。

ここには、2018年8月25日に六角精児さんと下田逸郎さんが訪れたそうでサイン(コピー?)が掲示されている。翌8月26日に「六角精児と下田逸郎の坊津コンサート」が開催されており、その途中に旧上日置駅に立ち寄ったようである。

六角精児さんと下田逸郎さんのサイン、上の写真は別の人が撮った昔のもの

上日置駅跡を出てからカーラジオを付けたら、六角精児さんの声が流れてきたのは、

余りにも出来過ぎた偶然だった。(後で調べたら、毎週木曜日に六角精児さんがパーソナリティを務めているNHKの「ふんわり」という番組だった)

吉利駅跡・永吉駅跡

日置市帆之港から南さつま市まで、通称「吹上浜サイクリングロード」という自転車専用道路が通っている。全長は23.9kmで、このうち日置市の旧吉利駅付近から旧薩摩湖付近までは、南薩線跡が活用されており、旧吉利駅と旧永吉駅はサイクリングロードへの乗り入れ口として残っている。

 

吉利駅案内板

吉利駅跡ホーム、右側線路跡がサイクリングロード

永吉駅案内板

永吉駅跡ホーム、右側はサイクリングロード

永吉川鉄橋跡

吉利駅跡と永吉駅跡の間に、道の駅の「かめまる館」がある。この前を流れる永吉川に南薩線の鉄橋の跡が残っている。

永吉川の南薩線鉄橋の橋脚跡

永吉川の南薩線鉄橋の橋台跡

吹上浜

廃線跡とは直接関係はないが、昭和53年(1978年)8月12日に、市川修一さんと増元るみ子さんが、北朝鮮に拉致されたとされる場所が旧吹上浜駅近くだ。

当時、吹上浜のこの付近では「夜半、沖に赤い灯が見える。密航船だ。気を付けるように」と言われていた。どうもこれが、密航船ではなく工作船だったようだ。もっと早く事件の前に分かっていたら、そして取り締まりが出来ていたらと思う。

旧薩摩湖駅

南薩線の設立は南薩鉄道という会社で、当初の代表者は鮫島氏であったが、昭和27年(1952年)に岩崎氏に代わる。岩崎氏は観光に力を入れていた。そして、南薩線でのその代表が「さつま湖」であった。湖には遊覧船が浮かび、湖の中の島には橋が架けられバラ園があった。バラ祭りや大花火大会などのイベントが催され、薩摩湖駅は観光客で賑わっていた。

吹上浜駅跡・北多夫施駅跡

廃線跡の旧南吹上浜駅付近から旧阿多駅付近までは広域農道になっている。

鉄路の面影はほとんどないが、南吹上浜駅跡と北多夫施駅跡には案内板があり、往時をしのばせている。

吹上浜駅案内板

北多夫施駅案内板

鉄路跡の広域農道

広域農道からの金峰山

阿多駅跡

旧阿多駅は、知覧線の本線との分岐駅であった。

ここは現在、市営住宅になっており鉄路の面影はないが、鹿児島県の地域振興事業で「南薩鉄道(鹿児島交通線)の概要」と言う「案内板が設置されている。これを見ると、南薩線の歴史が概略分かる。阿多駅についての説明もある。

南薩線の歴史を記した案内板

阿多駅の説明

加世田駅跡

旧加世田駅は、南薩線の中止駅であった。また、わずか2.5km、薩摩大崎駅1駅だけまでという万世線の分岐駅でもあった。なお、万世線は現在はサイクリングロードとして活用されている。

加世田駅の乗降客の賑わい

万世線を走っていたガソリンカー

加世田駅跡は、現在バスセンターになっており、広場には南薩線を走った蒸気機関車ディーゼル機関車各1両が展示されている。また、バスセンター周囲には、鉄道で使用されていた機材類も展示されている。

なお、ここにも「南薩鉄道(鹿児島交通線)の概要」が設置されており、加世田駅についての説明もある。

広場に展示されている4号蒸気機関車

広場に展示されているDD1200型ディーゼル機関車

加世田駅の説明

南薩鉄道記念館

加世田駅跡のバスセンターに隣接して、石造の倉がある。ここが南薩鉄道記念館で、時代時代の機関車や駅の風景などの写真、機関車のプレートや通信機材、切符、南薩線の歴史年表などが展示されている。

石倉を活用した南薩鉄道記念館

鉄道記念館内の展示駅名標

南薩線の終止符

加世田駅跡及び阿多駅跡に設置されている「南薩線(鹿児島交通線)の概要に」バス路線が充実すると乗客が減少し・・1983年の加世田豪雨により線路が寸断・・1984年3月17日限りで、南薩鉄道70年の歴史に終止符が打たれることになった。当日は快晴に恵まれ、多くの沿線住民が繰り出して「南薩線」との別れを惜しんだとある。

お別れ列車は、4連のディーゼルカーだった。

 

ほめずが池、池大王神社、大塔宮

標高二百数十メートルの溝辺台地への斜面部中腹、鹿児島神宮の西側に当たる霧島市隼人町朝日集落には「不讃池(ほめずがいけ)という、ちょっと変わった名前の池がある。

隼人町教育委員会発行の「隼人町の民話」に、この池の話が収められている。

朝日に「ほめずが池」という池がある。この池のかたわらに「池の大王神社」という龍神をお祭りする小さな神社がある。

むかし、この神社に母と幼い娘がお詣りに来た。母がお詣りをする間、一人で遊んでいた娘が蛇の目傘をクルクル回しながら「なんときれいな池でしょう」とつぶやいた。すると突然娘は見えない力で引き寄せられ、池の中に飛び込んだ。

驚いた母親が、何度も娘の名前を呼び続けたところ、池の面に娘が姿を現した。母親は「ありがたや」と抱き取ろうとしたが、娘はだまったままニッコリ笑うと再び池の中に沈んで行った。

あきらめきれない母親は、いっそう大きく叫び続けた。すると今度は龍が現れた。

娘が出て来てくれると思っていた母親は、驚いて気を失ってしまった。

母親が気付いた時、池の面は何事もなかったように静かになっていた。

このことがあってから村人たちは「この池を決してほめてはいけない」といましめあい、池のことを「ほめずが池」と言うようになった。

後に、娘が持っていた蛇の目傘が、姶良市蒲生町住吉池に現れたと伝えられ、朝日の池と住吉池はつながっていると言われるようになった。

概ね、このような話である。

不讃池は自然池である。朝日の集落のはずれ、奥まったところにある。広さは1町2反くらい、周囲は鬱蒼としており、ガマホ、ヒシ、ジュンサイ、コウノホネなどの珍しい水生植物が生えており、鰻や鮒などが棲んでいるといわれる。

池の傍らには、隼人町の民話に記されているように「池大王神社」がある。高さ、幅、奥行きとも2~3mの小さなお社だが、御祭神は龍神ではない。「天太玉命」である。何故だろうか。

ところが、池大王神社のすぐ隣、池側に昭和57年に氏子一同建立の小さな祠があり、石像が祀られている。石像は、廃仏毀釈で壊されたのだろうか、頭部がない。しかし、左手に蛇をもっていることから水神だということが分かる。地元の人からも確たることは聞けなかったが、この石像が民話に記されている龍神かもしれない。

朝日は、標高100m~150mくらいに位置する段丘地帯だ。北側、溝辺方面には、数十メートルの岩崖が屹立している。この岩崖の前にややまとまった平地があり、この一角に不讃池と池大王神社がある。この平地は、今はツタや雑草が生い茂っているが、以前は田地が開けていた。寛文4年(1664年)の薩隅日並琉球高辻帳(鹿児島県立維新史料編纂所蔵)に記録されている「日当山郷之内浅井村112斛4斗8升2合」のほとんどは、この地のものではないかと思われる。

今は、耕作が放棄され荒れているが、元々はまとまった田地だった。

朝日の集落は、不讃池と池大王神社がある場所より少し離れた段々になったところにある。間には山林があり、人里離れた不讃池は神秘性が漂う。しかし、昔は田んぼに日常的に村人が通ったことだろうし、子供たちもついて来たと思われる。そうした中で、水難事故があり、このような民話が生まれたのではと想像される。

ところで、池大王神社には、大塔宮についての言い伝えもある。

日當山村史には「池大王神社は、元弘年(南朝年号1331年~35年)に、大塔宮朝日村の内、小字野上屋敷というところへ一家定めの時分、御尊敬の御宮と申伝えられている」ということが記述されている。

大塔宮は、後醍醐天皇の皇子である。

元弘3年(1333年)に元弘の乱鎌倉幕府に勝利した後醍醐天皇は、建武の新政を開始するが、この乱で大塔宮は戦いの主役となり、大きな功績を上げて征夷大将軍に任じられる。しかし、足利尊氏と対立し、天皇の姿勢にも批判的であったことなどから、失脚する。建武元年(1334年)には、令旨を発して尊氏討伐を企てたが、捕らえられ、建武2年(1335年)に殺害される。数え年28歳であった。

この短い生涯で、大塔宮が九州に来たという記録はない。

日當山村史でも「野上宅地は、地頭館より申方一里浅井村にあり。竪80間、横60間ばかり、三方二十塹の跡あり。往古、大塔宮居住の遺跡なりとて、嘉例川村の内迫間に小祠ありて大塔宮へ扈従(こしょう)せし大森彦七という人の神詞なりという。大塔宮の事績は古来の史籍に詳しい。懐良親王の間違いではなかろうか」と指摘している。

それでは、懐良親王がこの朝日に一時居を構えたのだろうか。

懐良親王は、南朝の征西将軍として南朝興国3年(1342年)から南朝正平2年(1347年)までの6年間、島津氏らと薩摩で戦っている。従って、この間、朝日に砦なりを構えたということも可能性としてはあり得る。

しかし、朝日の地理的状況を見ると、その可能性はほとんど消えるのではないかと思われる。

現在の朝日集落には県道473号線が横断しており、道路状況が悪いとは言えない。しかし、この道路は、太平洋戦争時の軍用道路として建設されたものが前身で、それまでは、朝日と南側の下場を結ぶ道は、小さな山道しかなかった。また、北側も高い岩壁で、その間を縫った小さな道しかなかった。こうした隔絶した地に、各地の豪族の調略に明け暮れていた懐良親王が居を構えるなどあり得るだろうか。

北側は、このような高い岩崖(加久藤火砕流?)

薩隅日地理纂考抄にも「(大塔宮は)懐良親王のことなどを誤って伝えてものだろう。但し、懐良親王としても確たる根拠はない。強いて言うならば菊池武光が三股城(宮崎県三股町)などを陥し、懐良親王がその地に巡行した時の行宮の可能性もあるので記し置く」と懐疑的に記されている。

なお、日當山村史にある大塔宮へ扈従せし大森彦七とは、楠木正成を敗死させたとされる南北朝時代の武将のことだと思われるが、この武将は、元弘の乱では幕府軍についており、また南北朝時代北朝方であり、大塔宮に付き従っていたということはあり得ないと思われる。

こうしてみると、大塔宮のこと、懐良親王大森彦七のこと、いずれも史実としては疑わざるを得ないと思うのだが、どうだろうか。

太平記には、大塔宮が熊野落ちした時に隠れた地について「土地こそ狭いが、四方はみな険しい山で、10里、20里の中へは、鳥さえ飛ぶのが難しい所、その上、人の心は偽らず・・」と記されている。何か、朝日にもそういう雰囲気がある。

また、同じく太平記には、大塔宮は暗殺に来た淵辺義博の刃を咥えながら果てたことや大森彦七楠木正成の怨霊に襲われたという話も記されている。

こういったことを踏まえながら、私的に推論を組み立ててみた。

日當山村史にある大塔宮朝日居住の言い伝えは、大森彦七への神様のお告げが基になっている。それでは、この大森彦七は本人だったのだろうか。太平記の大塔宮の熊野落ちや大森彦七にまつわる怪奇な話について、意図的に利用しようとした間者など、若しくは中途半端な知識しかなかった別人が、大森彦七を装ったのではなかろうか。その人の神詞を村人が信じ、伝えてきたということではなかろうか。そう考えると何かすっきりするような気がするのだが・・。

カルデラ壁のような山肌の真ん中あたりに朝日集落はあるが、見えない。

 

アマガエル

畑の溝を上げていると、アマガエルがぴょこんと飛び出し、岩壁に張り付いた。10数年ここで耕してきたが、アマガエルを見たのは初めてだった。

20年くらい前までは、アマガエルが家の窓ガラスに張り付いて、ペロリと舌を伸ばして、ウンカや蛾を食べていた。その頃は、「ウンカが中国大陸から飛来してきて困る」と農家が話していたものだが、近年はそんな話はとんと聞かない。私の家は、私の中山間農地からは約5kmのところで、住宅化が進んでいるものの、田んぼに囲まれている。そんな場所にもウンカが飛んでこない。農薬かなあ。

ウンカを見なくなって、家の窓にアマガエルが張り付くことも無い。だから、アマガエルを見たのも久しぶりのことだった。

ただ、アマガエルだけでなく、蛇類も見なくなっている。

私の畑は水気が多く、最初耕作しだした頃は、周りの人たちから「ここはマムシの巣だ」と教えられた。そのため、畑でも後ろの山でもマムシには気を付けていたが、見たのは最初の頃、畑で1回、山で1回だけだ。

以前は、畦道でいくらでも遭遇していたヤマガカシも近頃は見ることがない。毎年、抜け殻が一つあるので、青大将は一匹いるようだが・・。

普通のカエルも極端に少なくなった。以前は、水が温むと畑のたまり水や溝におびただしい数の卵が産みつけられ、オタマジャクシがうじゃうじゃ孵っていたのに・・。

緑に囲まれ、澄んだ空気を吸いながら、適度に汗をかくという長閑な野良仕事だが、こうした生物環境の変化を見るとフッと「あと10年経てば、20年後は、孫の時代はどうなるのだろうか」と、心配になることがある。

いぼの神様

インターネットで「いぼの神様」を検索していると、平松皮膚科医院の「いぼとり神様・仏様の全国リスト」という書の広告に行き当たった。

それによると「全国リストのいぼ神様・仏様は現在1321か所」とある。全国の市町村数が1700余りだから、平均では1市町村1ケ所に満たないということになる。

リストには載っていないのだが、霧島市隼人町神宮の三叉路角地にも、地域の人たちから「いぼの神様」と祀られてきた石像がある。

廃仏毀釈によるものだろうか。顔部から頭部は痛々しく削られている。しかし、こちらも完全ではないものの、宝珠と錫杖を持っていることから、地蔵尊像だということが分かる。

いぼの神様に祈願する時は、小豆や大豆を供えるとか、きれいな水で洗うとか、小石で擦るなどが良く言われるが、ここの地蔵尊像には、そういったものに関係しそうなものは何もない。それにいぼが取れたという評判も聞いたことがない。それでもいぼの神様と言われてきているのである。何故なのか分からない。過去に、いぼが治ったか何かあったと推測するしかない。

今は、いぼの神様にいぼ取りの効果があると考える人など滅多にいない。そのうち、この地蔵尊像をいぼの神様と言う人もいなくなってしまうかもしれない。

確かに、実体的なご利益は見えない。しかし、それでも一つの地域遺産である。何とか、繋いでいきたいと思う。

広告には「リスト以外のいぼ取りさんがあったら連絡して欲しい」とあるが、由来等が不明な状態では、連絡するわけにはいかない。

真言水天石柱塔

鹿児島神宮の近く、霧島市隼人町内山田地区には、水天を讃嘆する真言を刻んだ石柱塔が二基ある。

水の神様、水天(水神)の碑は頭にとぐろを巻いた蛇を被り、右手に蛇を持ったもの水神の文字を刻んだものが多いが、この真言水天石柱塔は、水天を表す梵字と「水天に帰命する」という意味の七語(真言)が梵字刻まれている。このように、真言梵字で表したものはとても珍しいのだそうだ。

野崎集落にある真言水天石柱塔

内山田地区には、天降川の上流を取水口とする宮内原用水が流れている。

石柱塔の一つは、野崎集落の宮内原用水が小田地区に分水する地点に建っている。またもう一つは、中道集落の宮内原用水から水を取り入れている溝の横に建っている。

宮内原用水は、天降川の上流部、水天渕を取水口とし、鹿児島湾奥を終点とする全長約12kmの用水路だ。水天石柱塔のある内山田地区は微高地で、宮内原用水が通じるまでは原野だった。それが、用水域全体で六千石を算出する田に生まれ変わったのだ。従って、当時の人々にとって、宮内原用水が通水したことはとても有難いことだったことだろう。そのため、水路が完工したことに感謝するとともに、水路が決壊するなどの災害がないように、また水による事故が起きないようにといったような願いを込めて、宮内原用水の要所にこの石柱塔が建てられたのではないかと思われる。

なお、石柱塔が建てられた年代は、はっきりとはしていないが、宮内原用水が完成した正徳6年(1711年)から暫くしてからだろうと推測されている。

隼人町の龍波見家の水天像

隼人町の角之下川沿いの水神碑

参考:隼人町の石造文化財

鹿児島神宮の初午祭

鹿児島市のおはら祭り、曽於市の弥五郎どん祭りとともに、鹿児島の三大祭りの一つである「鹿児島神宮の初午祭」が、令和6年は3月3日の日曜日に行われる。

祭りの主役は、多くの鈴が連なった胸飾り、花や錦などで飾った鞍を着け、ステップを踏みながら踊る馬。鈴を懸けて踊ることから「鈴懸馬」と呼ばれる。参加する馬は、農耕馬やポニーで十数頭だ。

この馬を先頭に、数十人の踊り連が太鼓、鉦、三味線の賑やかな伴奏で「せっぺ跳べ跳べ八幡馬場よ、鳥居にゃお鳩が巣を掛ける」「踊れ踊れ踊れば花じゃ。踊らな損じゃ」と、ハンヤ節のようなテンポの速い唄に合わせて踊りながら参道を進んでいく。

祭りの日は、参道だけでなく、県道も一部区間歩行者天国となり、多くの出店が並ぶ、例年20万人が繰り出し、蟻の隙間もないような大賑わいとなる。

ところで、伏見稲荷大社など各地の初午祭は2月の最初の午の日に行われるが、鹿児島神宮の初午祭は、旧暦の最初の18日に近い日曜日に催される。その日が今年、令和6年は3月3日だ。これには、初午祭の発生説話が関係している。

初午祭の発生説話で良く言われているのが霊夢起源説である。

今から450年以上前の天文年間、室町時代末のことである。戦乱で大隅八幡宮(現鹿児島神宮)が焼け、再建工事がなされていた。その時、神官桑幡道延家に泊まっていた島津氏当主島津貴久の夢に馬頭観音が現れ「この地にわれを祀り、一堂を建立してくれると守護神となって、この国の馬を守ってやろう」とのお告げがあった。このことを桑幡氏と居合わせた日秀上人という僧に話したところ、二人とも同じ夢を見たとのこと。「これは尊いお告げ(霊夢)に違いない」と日秀上人が早速、馬頭観音像を彫り、獅子之丘の正福院観音堂に祀った。それより地域の人々は夢の縁日、旧1月18日を祭日とし、牛馬の繁盛や農作物の豊穣を願い、馬を連れ、この観音様にお祈りし始めた。そのうち、次第に踊りや囃子が付き、馬や人が踊るようになった。これが初午祭の始まりとされている。

その後、明治の廃仏毀釈で、獅子之丘正福院観音堂が壊され、馬の参詣も出来なくなってしまったことから、鹿児島神宮末社、宮内辻の角の保食神社に参詣するようになり、概ね現在の形のような祭りとなってきた。

霊夢にちなみ、地元では初午祭で踊る馬のことを「十八日の馬」と呼んでいる。「十八日の馬」は、霧島市の無形民俗文化財に指定されている。

無形文化財指定を記念した奉納木馬(鹿児島神宮境内)

発生説話として言われているもう一つは、御神馬説である。

姶良市加治木町木田は、鹿児島神宮と関係の深い地である。

中世、加治木郷は大隅八幡宮の荘園のうちで「御馬所検校」もいた。ところが、戦乱により、大隅八幡宮の荘園は武士領主に奪われ、戦国末期にはほとんど消滅してしまった。そして、最終的に加治木を治めたのが島津氏である。

島津氏は大隅八幡宮を保護し、加治木に所領を与えた。こうしたことから、正八幡宮領の農民は、江戸期に正八幡宮の神事では、御神馬に米や塩を背負わせて奉納していた。それが、ある時期から御神馬を美しく飾り、住民が三味や太鼓で踊りながら参詣するようになったのが「馬踊り」だともされている。

現在の初午祭は、旧大隅八幡宮の社家であった留守家跡にある保食神社での神事から始まる。この神事に参加するのは、初午祭実行委員会の関係者や神宮総代などで、馬踊り参加者は木田地区だけだ。

木田の神馬だけが神事に参加し、一番に踊り始める

神事が終わり木田の馬が踊り始めた後、他の馬は辻の角の保食神社でお祓いをうけ、踊り連と踊り始める。

祭りの開催日が基本旧暦1月18日であることや木田の馬が神馬、一番馬であることなどをみると、初午祭の起こりには、二つの説話が融合しているように思える。

春の訪れを告げる祭りとして大賑わいをみせる鹿児島神宮の初午祭だが、大きな課題も抱えている。参加する馬に苦労しているのだ。

戦後暫くは100頭以上だった参詣馬数が、ここ数年は10数頭になっている。馬の種類も、元々は農耕馬だけだったが、その確保が困難になりポニーが増えてきている。また、高度の熟練を要する調教の出来る人が少なくなっている。

このため、初午祭実行委員会や木田の人々などが、何とかこうした状況を改善し、祭りを盛り上げようと努めているという状況だ。

鹿児島県では、鹿児島神宮の初午祭の鈴懸馬が伝搬し、姶良市の「帖佐十九日馬踊り」など各地の祭りに伝承されている。各地のこうした馬踊りが「薩摩の馬踊りの習俗」として、平成14年(2002年)に記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に指定されているが、この指定もこうした課題を受けてのものではないかと思う。

<参考>霧島市及び姶良市HP、国指定文化財等データベース、霧島市シルバー観光ガイド養成研修テキスト

三ケ所の笠狭宮阯

私の住んでいる霧島市隼人町宮内は、彦火火出見尊の高千穂宮があったとされるところだ。そして、私の出身地の南さつま市加世田は、瓊瓊杵尊の笠狭宮があったとされる。個人的な想いに過ぎないのだろうが、こうしたことに、かねてから不思議な縁があると思っていた。

ところで南さつま市には、瓊瓊杵尊が宮居とした笠狭宮阯とされるところが三ケ所ある。一ケ所は高屋ケ尾麓の川畑舞敷野、もう一ケ所は宮原(竹屋神社)で、こちらは瓊瓊杵尊が舞敷野から遷都した場所と伝えられている。もう一ケ所は笠沙町宮ノ山である。

舞敷野の笠狭宮阯

竹屋神社の笠狭宮説明碑

宮ノ山の笠沙宮説明碑

古事記には、天照大御神、高木神の命により、高天原から葦原中国(地上)に下りてきた瓊瓊杵尊が統治にふさわしい所を探していたところ「韓国(からくに)に向かい往き通うのに適した笠紗の御前で朝日が直接差し、夕日が明るく照らす良い所」に行き着いて、そこに「地の底の岩に太い宮柱で天にも届く千木のお宮を建ててお住まいになられた」というようなことが記されている。また、日本書紀には「瓊瓊杵尊が、吾田の長屋の笠狭之崎に着かれ、長屋の竹嶋に登られた」というようなことが記されている。

笠紗の御前は笠沙の岬、吾田は阿多、長屋は現在の南さつま市一帯、旧加世田郷とされていたようで、宮居の址など瓊瓊杵尊に関する言い伝えが各地に残っている。

ところで、鹿児島県は二千六百年記念事業として県内の皇祖や神武天皇に関するものを調査して、昭和15年(1940年)に史蹟に指定している。

この二千六百年記念事業による指定については、昭和15年に当時の鹿児島史談會会長の岩元禧氏が地域の郷土史研究家などの協力を得て著した「皇祖発祥聖蹟」が密接に繋がっているように見える。その中で、川畑舞敷野の笠狭宮阯については「①古来からこの舞敷野の御座屋敷が笠狭宮遺跡であると伝わっていること ②背後の竹屋ケ尾からは一帯を俯瞰でき、防御などに適していること ③笠沙の岬からここまでの経路に種々の伝説が残っていることなどを挙げ、ここが皇大宮の始まりであったとしている。

また、宮原(竹屋神社)については「①此処に舞敷野から宮居が移されたという古来からの伝説があること ②外戚大山祇神の住居阿多と一体的地形で、河口船着場に近いことなどから、舞敷野から宮居が移されたのは確実であろうと記している。

一方、もう一ケ所の宮ノ山については、形勢が定まり宮居の地が固まるまで瓊瓊杵尊が駐蹕した地であり、宮居ではなかったとしている。

実際、宮ノ山の案内碑には「神代笠沙宮の古址と伝えられる」とあるが、山上の石碑には「瓊瓊杵尊駐蹕之地」と刻まれている。(碑では蹕が馬偏になっているが・・)

なお、紀元二千六百年記念事業により鹿児島県が皇祖や神武天皇に関するものを史蹟に指定したのは昭和15年11月10日付けであるが、①舞敷野は「神代瓊瓊杵尊宮居址(前ノ笠沙宮)」 ②宮原は「神代瓊瓊杵尊宮居址(後ノ笠沙宮)」で、いずれも宮居址であるのに対し、③宮ノ山は「神代聖蹟笠狭之碕瓊瓊杵尊御上陸駐蹕之地」となっており、皇祖発祥聖蹟と符号している。

こうしたことから、笠狭宮阯は舞敷野と宮原の二ケ所と見るのが妥当と思われる。

笠狭宮阯とは少し外れるが、私の出身小学校、川畑小学校の校歌の出だしは「緑も深い竹屋ケ尾」である。

竹屋ケ尾は、南さつま市南九州市の境界の標高271mの丘山である。

この竹屋ケ尾には、瓊瓊杵尊妃 木花開耶姫が火の中で火照命=海幸彦=隼人の祖先、火須勢理命火遠理命=山幸彦=彦火火出見尊の三皇子を出産されたと伝わる場所がある。

古事記に、瓊瓊杵尊大山祇命の娘、木花開耶姫と結婚したが、一夜の契りで身重になったことから自分の子供ではない、国津神の子供ではないかと疑ったという話がある。

この疑いを晴らすため姫は、戸のない産屋を作り、そこに火を付けて三皇子を産んだ。火が点いてすぐ産まれたのが火照命、燃え盛る中で産まれたのが火須勢理命、そして火の勢いが弱まって消えそうな時に産まれたのが火遠理命だ。出産の時姫は、へその緒を竹の切り口で切って、切れたらその竹を地面に突き刺した。それが芽吹いてやがて竹林になったと伝えられている。私が幼い頃には、突き刺した形、逆さに笹が生えていると

言われていたが、今度行った時には、そこの竹林に逆さ竹は見当たらなかった。

笹の向きが地面に向いていると言われていたが・・。

また、山頂には「神代聖蹟竹屋」の碑がある。二千六百年記念の碑で、鹿児島県の史蹟に指定されている。隣に大正4年11月建立の大勲位侯爵 松方正義による「彦火火出見尊御降誕之地」の碑があることから、これが指定理由だと思われる。

なお、竹屋ケ尾の山頂には以前、三皇子を祀る神社があったそうだ。

万之瀬川の支流に大谷川がある。この川の名称は昭和初期までは神事川(しすごかわ)だった。神事のいわれについて、川畑郷土誌には、竹屋ケ尾の山頂の神社の祭りの時、この川で身を浄めたからだと記されている。

名神事川の井堰

竹屋神社由緒記などによると、この神社が遷宮したのが竹屋神社だそうだ。

竹屋神社の御祭神は、中央本宮が彦火火出見尊(山幸彦)、東宮が火闌降命(火須勢理命)、西宮が火明命(火照命)である。このように三皇子が祀られている社は珍しいのではないかと思う。また、瓊瓊杵尊が祀られていないというのは不思議に思う。

ただ、加世田は彦火火出見尊に重きが置かれているように思う。竹屋ケ尾には彦火火出見尊御降誕之碑がある。竹屋神社の主祭神彦火火出見尊である。そして、ここには彦火火出見尊の御陵とされる磐境もある。