二千六百年記念事業 その1-高千穂宮址

拙稿「鹿児島神宮ー海幸・山幸物語」で少しふれたが、霧島市隼人町の宮の杜ふれあい公園に「神代聖蹟高千穂宮址」碑が建てられている。

碑文を要約すると

①高千穂宮は、久しい間彦火火出見尊の皇居であった。また神武天皇が兄の五瀬命と東遷について話し合ったところである。

鹿児島神宮神域及び石體神社並びにその周辺が高千穂宮址である。

紀元2600年に当たり、高千穂宮址に遥か昔の建国を偲び、敬うために碑を建てて永遠に伝える。というようなことのようである。

碑文にあるように、この碑は二千六百年記念事業として建てられたものだ。

二千六百年記念事業として建てられた碑は、鹿児島県内あちこちにあるのだが、関心を持つ人は少ないようである。尤もこの事業が実施されたのは戦前であり、紀元という紀年法も多くの人には、なじみがないからだと思う。

ここで言う紀元は、皇紀即ち神武天皇即位紀元で、神武天皇が即位した年を元年とする日本独自の紀年法である。現在では、紀年法に西暦と元号が使われることが多いが、戦前まではこの紀元と元号が一般には使われていた。そして昭和15年(1940年)が神武天皇即位二千六百年に当たるということで、全国的に大々的に記念事業が実施された。これが紀元二千六百年記念事業である。

国の方針を受けて、各県でも様々な事業が実施された。

それでは、鹿児島県ではどうだったのか。昭和42年(1967年)発刊の鹿児島県史(5巻)に次のようなことが記されている。

昭和15年は紀元260年にあたり国をあげて奉祝気分がみなぎった。

②本県は皇祖発祥の霊域であり、肇国(ちょうこく・・建国)の聖地とされていた。

③県では、2600年を記念して、神代並びに神武天皇聖蹟調査会を組織し、古事記日本書紀の神話ないし伝説に基づき、関係地名に関する調査研究がとげられた。

昭和15年11月10日神代聖蹟10件が、11月29日神武天皇降誕伝説地5件が告示してされた。

⑤但し、この指定は今日においては学問上疑問の点も少なくない。

なお、④にある告示指定された15件は、県史別巻に鹿児島縣指定史蹟表として記載されているが、その指定の1件が神代聖蹟高千穂宮で、姶良郡隼人町となっている。

ところで、この高千穂宮とは何なのか。

古事記に「高千穂宮で彦火火出見尊が580歳まで過ごされた」「高千穂宮で神武天皇が兄の五瀬命と東遷について話し合った」というような記録がある。この高千穂宮のことである。ところが、古事記には高千穂宮が何処にあったのかは記されていない。

紀元2600年記念事業は、国が大々的に実施しているが、事業の一つに神武天皇聖蹟調査が行われ、神武天皇東征の聖蹟・遺功を讃える顕彰碑が19カ所に建てられた。

調査時点で高千穂宮が鹿児島県と宮崎県から対象として挙がっていた。しかし、証拠が十分でないので聖蹟として決定できないとされた。

「皇祖発祥の聖蹟地である」と自認していた当時の鹿児島県にとって、この決定は大いに不服だったのは当然で、こうしたことから、県独自で「神代並に神武天皇聖蹟調査」を実施することになったようである。

それでは何故、高千穂宮は霧島市隼人町宮内(鹿児島神宮神域及び石體神社並びにその周辺)なのか。

昭和15年6月に鹿児島史談會が発行した皇祖発祥聖蹟という書がある。

著者は、同会会長で沖縄県知事鹿児島市長などを務めた岩元禧氏で、行政機関や歴史家の協力を得て著したものであるが、この書が、昭和15年告示指定の神代聖蹟及び神武降誕伝説地さらに県内各地に見られる2600年記念関連史蹟に密接に繋がっているように思える。

この書には、高千穂宮については碑文と同じく「鹿児島神宮神域及び石體神社並びにその周辺が高千穂宮址である」と記されている。

一方、薩摩藩国学者 白尾國柱が寛政7年(1795年)に著した麑藩名勝考には「石體(神社)は彦火火出見尊が初め都したところで、ここに神廟を建て石の御神体を安置した。これが鹿児島神社(現鹿児島神宮)の原処である」記されている。また、鹿児島神宮神職を務めた桑幡公幸氏は、明治36年1903年)に著した国分古蹟で「今の鹿児島神宮の場所が高千穂宮である」と言っている。

こうして見ると、高千穂宮又は彦火火出見尊が初め都にしたところについて、麑藩名勝考や国分古蹟では一つの場所を挙げているのに対し、皇祖発祥聖蹟では、両方の場所を含んだ広いエリアだとしている。捉え方にに違いはあるものの、いずれの書も私たちの住む宮内に彦火火出見尊の都があったとしていることにちがいはない。ただ、麑藩名勝考では石體神社だけが高千穂宮址だと言っているかというと、どうもそうではないようである。

ここからは、神話の「海幸・山幸物語」になってくるわけだが、麑藩名勝考では「瓊瓊杵尊崩御彦火火出見尊は石體神社を宮居とする→兄の火闌降命の釣り針を失くす→綿積の宮で釣り針を見つける→内之浦の海岸に帰り着く→彦火火出見尊は薩摩・大隅を兄の火闌降命に譲り都城に遷都する」となっている。

そうすると、高千穂宮が2カ所あったということになるのだろうか。

日本書紀に「彦火火出見尊が亡くなって、日向の高屋山上陵に葬られた」とある。

この高屋山上陵について、麑藩名勝考は「肝属郡内之浦郷小串村國見岳山頂である」と記している。ところが、明治7年(1874年)に高屋山上陵は溝辺村(現霧島市)に治定された。鹿児島神宮や石體神社に近い場所にだ。

皇祖発祥聖蹟では「御陵の近くに都があったはず」「高千穂宮が複数あるはずがない。神武天皇が兄の五瀬命と東遷について話し合った高千穂宮もこの鹿児島神宮周辺だ」としており、なるほどと思う。

ただ、鹿児島県史(5巻)で「この指定は今日においては学問上疑問の点も少なくない」と指摘しているように、史実として高千穂宮があったかどうかは分からない。しかし、鹿児島神宮関係の旧記に「鹿児島神社は彦火火出見尊が大宮を建てた旧趾」という記録などがあるということは、それを示す何かがあったということだろう。また神代聖蹟高千穂宮が昭和15年に鹿児島県の史蹟に指定されたことも事実で、それ自体にも歴史的な価値があると思う。

なお、皇祖発祥聖蹟は「高千穂宮が此湾内沿岸隼人町に建てられて、三個國経営の中心となったのである」としており、また麑藩名勝考は「彦火火出見尊は、この宮内の後、日向の地に遷都され、この地は兄の火闌降命に与えたことで、その子孫が大隅・薩摩を領有した」としている。こういう記事を見ると、皇祖発祥聖蹟や麑藩名勝考は、彦火火出見尊が治めたのは、大隅、薩摩、日向の三ヶ国だとしているのではないかと思ってしまう。

古事記日本書紀の国譲りを見ると、彦火火出見尊が治めていたのは、葦原中国だと思うのだが・・?

高千穂宮から日本全体を統治したという話に何故ならないのだろう。不思議に思う。

皇祖発祥聖蹟は、宮内から高千穂峰が見えることも根拠としている