ほめずが池、池大王神社、大塔宮

標高二百数十メートルの溝辺台地への斜面部中腹、鹿児島神宮の西側に当たる霧島市隼人町朝日集落には「不讃池(ほめずがいけ)という、ちょっと変わった名前の池がある。

隼人町教育委員会発行の「隼人町の民話」に、この池の話が収められている。

朝日に「ほめずが池」という池がある。この池のかたわらに「池の大王神社」という龍神をお祭りする小さな神社がある。

むかし、この神社に母と幼い娘がお詣りに来た。母がお詣りをする間、一人で遊んでいた娘が蛇の目傘をクルクル回しながら「なんときれいな池でしょう」とつぶやいた。すると突然娘は見えない力で引き寄せられ、池の中に飛び込んだ。

驚いた母親が、何度も娘の名前を呼び続けたところ、池の面に娘が姿を現した。母親は「ありがたや」と抱き取ろうとしたが、娘はだまったままニッコリ笑うと再び池の中に沈んで行った。

あきらめきれない母親は、いっそう大きく叫び続けた。すると今度は龍が現れた。

娘が出て来てくれると思っていた母親は、驚いて気を失ってしまった。

母親が気付いた時、池の面は何事もなかったように静かになっていた。

このことがあってから村人たちは「この池を決してほめてはいけない」といましめあい、池のことを「ほめずが池」と言うようになった。

後に、娘が持っていた蛇の目傘が、姶良市蒲生町住吉池に現れたと伝えられ、朝日の池と住吉池はつながっていると言われるようになった。

概ね、このような話である。

不讃池は自然池である。朝日の集落のはずれ、奥まったところにある。広さは1町2反くらい、周囲は鬱蒼としており、ガマホ、ヒシ、ジュンサイ、コウノホネなどの珍しい水生植物が生えており、鰻や鮒などが棲んでいるといわれる。

池の傍らには、隼人町の民話に記されているように「池大王神社」がある。高さ、幅、奥行きとも2~3mの小さなお社だが、御祭神は龍神ではない。「天太玉命」である。何故だろうか。

ところが、池大王神社のすぐ隣、池側に昭和57年に氏子一同建立の小さな祠があり、石像が祀られている。石像は、廃仏毀釈で壊されたのだろうか、頭部がない。しかし、左手に蛇をもっていることから水神だということが分かる。地元の人からも確たることは聞けなかったが、この石像が民話に記されている龍神かもしれない。

朝日は、標高100m~150mくらいに位置する段丘地帯だ。北側、溝辺方面には、数十メートルの岩崖が屹立している。この岩崖の前にややまとまった平地があり、この一角に不讃池と池大王神社がある。この平地は、今はツタや雑草が生い茂っているが、以前は田地が開けていた。寛文4年(1664年)の薩隅日並琉球高辻帳(鹿児島県立維新史料編纂所蔵)に記録されている「日当山郷之内浅井村112斛4斗8升2合」のほとんどは、この地のものではないかと思われる。

今は、耕作が放棄され荒れているが、元々はまとまった田地だった。

朝日の集落は、不讃池と池大王神社がある場所より少し離れた段々になったところにある。間には山林があり、人里離れた不讃池は神秘性が漂う。しかし、昔は田んぼに日常的に村人が通ったことだろうし、子供たちもついて来たと思われる。そうした中で、水難事故があり、このような民話が生まれたのではと想像される。

ところで、池大王神社には、大塔宮についての言い伝えもある。

日當山村史には「池大王神社は、元弘年(南朝年号1331年~35年)に、大塔宮朝日村の内、小字野上屋敷というところへ一家定めの時分、御尊敬の御宮と申伝えられている」ということが記述されている。

大塔宮は、後醍醐天皇の皇子である。

元弘3年(1333年)に元弘の乱鎌倉幕府に勝利した後醍醐天皇は、建武の新政を開始するが、この乱で大塔宮は戦いの主役となり、大きな功績を上げて征夷大将軍に任じられる。しかし、足利尊氏と対立し、天皇の姿勢にも批判的であったことなどから、失脚する。建武元年(1334年)には、令旨を発して尊氏討伐を企てたが、捕らえられ、建武2年(1335年)に殺害される。数え年28歳であった。

この短い生涯で、大塔宮が九州に来たという記録はない。

日當山村史でも「野上宅地は、地頭館より申方一里浅井村にあり。竪80間、横60間ばかり、三方二十塹の跡あり。往古、大塔宮居住の遺跡なりとて、嘉例川村の内迫間に小祠ありて大塔宮へ扈従(こしょう)せし大森彦七という人の神詞なりという。大塔宮の事績は古来の史籍に詳しい。懐良親王の間違いではなかろうか」と指摘している。

それでは、懐良親王がこの朝日に一時居を構えたのだろうか。

懐良親王は、南朝の征西将軍として南朝興国3年(1342年)から南朝正平2年(1347年)までの6年間、島津氏らと薩摩で戦っている。従って、この間、朝日に砦なりを構えたということも可能性としてはあり得る。

しかし、朝日の地理的状況を見ると、その可能性はほとんど消えるのではないかと思われる。

現在の朝日集落には県道473号線が横断しており、道路状況が悪いとは言えない。しかし、この道路は、太平洋戦争時の軍用道路として建設されたものが前身で、それまでは、朝日と南側の下場を結ぶ道は、小さな山道しかなかった。また、北側も高い岩壁で、その間を縫った小さな道しかなかった。こうした隔絶した地に、各地の豪族の調略に明け暮れていた懐良親王が居を構えるなどあり得るだろうか。

北側は、このような高い岩崖(加久藤火砕流?)

薩隅日地理纂考抄にも「(大塔宮は)懐良親王のことなどを誤って伝えてものだろう。但し、懐良親王としても確たる根拠はない。強いて言うならば菊池武光が三股城(宮崎県三股町)などを陥し、懐良親王がその地に巡行した時の行宮の可能性もあるので記し置く」と懐疑的に記されている。

なお、日當山村史にある大塔宮へ扈従せし大森彦七とは、楠木正成を敗死させたとされる南北朝時代の武将のことだと思われるが、この武将は、元弘の乱では幕府軍についており、また南北朝時代北朝方であり、大塔宮に付き従っていたということはあり得ないと思われる。

こうしてみると、大塔宮のこと、懐良親王大森彦七のこと、いずれも史実としては疑わざるを得ないと思うのだが、どうだろうか。

太平記には、大塔宮が熊野落ちした時に隠れた地について「土地こそ狭いが、四方はみな険しい山で、10里、20里の中へは、鳥さえ飛ぶのが難しい所、その上、人の心は偽らず・・」と記されている。何か、朝日にもそういう雰囲気がある。

また、同じく太平記には、大塔宮は暗殺に来た淵辺義博の刃を咥えながら果てたことや大森彦七楠木正成の怨霊に襲われたという話も記されている。

こういったことを踏まえながら、私的に推論を組み立ててみた。

日當山村史にある大塔宮朝日居住の言い伝えは、大森彦七への神様のお告げが基になっている。それでは、この大森彦七は本人だったのだろうか。太平記の大塔宮の熊野落ちや大森彦七にまつわる怪奇な話について、意図的に利用しようとした間者など、若しくは中途半端な知識しかなかった別人が、大森彦七を装ったのではなかろうか。その人の神詞を村人が信じ、伝えてきたということではなかろうか。そう考えると何かすっきりするような気がするのだが・・。

カルデラ壁のような山肌の真ん中あたりに朝日集落はあるが、見えない。