二千六百年記念事業 その2ー桑原屯倉(みやけ)址碑

霧島市隼人町見次の公民館裏手に「桑原屯倉址」という碑がある。

裏面には、概略「安閑天皇の時代に、この地に穀物倉の桑原屯倉が設けられた。思うに神代の皇室の縁のあるところだからである。この址は今、見次(貢)の地名になっている。桑原は後の郡名となった」という碑文が刻まれている。

平成9年(1997年)隼人町(現霧島市教育委員会発行の「石碑に刻まれた町の歴史」には、この碑について「昭和15年の紀元二千六百年記念事業で建てられたものではないかと推測されるが詳しいことは不明」と記されている。

屯倉とは、大和王権の大王(おおきみ)が直接開発した直轄地、皇室御料地、もしくはそこにあった穀物倉のことである。

安閑天王は第27代天皇で、日本書紀の記載年を機械的に西暦に置き換えたとするウィキペディアの「上古天皇の在位年と西暦対照表」によると、在位は531年から536年とされる。日本書紀の安閑紀には、この5年間の在位中に全国で41ケ所の屯倉を設置したことが記されている。碑文によると、この屯倉の一つがここにあったということである。

ところで、拙稿 二千六百年記念事業その1ー高千穂宮で、昭和15年(1940年)に鹿兒島史談會が発行した皇祖発祥聖蹟という書が「鹿児島県内各地に見られる二千六百年記念事業関連史跡に繋がりが深いように思える」と書いた。

この書には、安閑天皇が設置した屯倉について、県内では①田布施屯倉 ②隼人の屯倉 ③肝属郡高山町宮下の屯倉 ④川内の屯倉の4ケ所があったと記されている。

日本書紀安閑紀2年5月9日の条に26ケ所の屯倉設置の記録があるが、貢租発祥聖蹟では、この内 ①我鹿屯倉我鹿。此云阿柯とあるのが田布施屯倉 ②桑原屯倉が隼人の屯倉 ③肝等屯倉取音讀とあるのが肝属郡高山町宮下の屯倉 ④婀娜膽殖屯倉が川内の屯倉に比定するとしている。

このうち、桑原屯倉については、①見次という地名が朝貢(みつぎ)だとする説があること ②同地は水運の便が良いこと ③明治期の国学者 飯田武郷が著した「日本書紀通釈」に桑原屯倉については、未詳としているものの大隅國の郡名という記述があること ④高千穂宮所在地であること(宮居所在地については、県内4ケ所に共通している)などが挙げられている。その他、ドグラノヤボとかヤケミトという屯倉に通じるような名が残っていることも理由としている。

皇祖発祥聖蹟=二千六百年記念事業関連の書と思われるが、このように①~④は碑文と通じており、桑原屯倉址碑も二千六百年記念事業関連で建てられた可能性が高いと思われる。

それでは、実際にこの地に桑原屯倉があったのか。それについては、疑問の点が多い。

大隅国日向国から分立したのは和銅6年(713年)である。この時の大隅国の郡は、4郡で、そのうちの囎唹郡を割いて桑原郡が設置されたのは、それから数年後のこととされている。安閑天皇2年は、上古天皇の在位年と西暦対照表をそのまま当てはめると532年である。書紀通釈は、桑原という名が同じものがあると指摘しただけで、桑原郡と桑原屯倉を結びつけたものではないと思われる。

それでは、元々この地名が桑原だったのかというと、それも疑問符がつく。

大隅国建国後、当地に住んでいた隼人に律令制度を教導するために朝廷側は、5,000人とも言われる柵戸を豊前から移住させている。その移民が設置したのが桑原郡で、郡名も移民の故郷にちなんだものだと言われている。

鹿児島国際大学教授などを務めた中村明蔵氏が著した「隼人の実像」という書にも「豊前国には秦氏をはじめ渡来系の人々が多くすんでおり、知識や諸技術において高いものを身につけていた。・・桑原郡と言う名は、(秦氏の指導による)養蚕・機織の殖産をめざしてつけられたとみられる」と記されているように、桑原は大隅国設置後の地名とする説が有力である。

それともう一点、安閑天皇の時代に穀物倉に入れるくらいの米の生産が当地であっただろうか?

大和政権の統治の基本は、民に田を耕させて米を納税させるというもの(班田制)であるが、当地で班田制が実施されたのは、法施行から100年経った延暦19年(800年)である。その理由の一つは、この地はシラス地帯で米作には不向きであったからだとされている。こうした所に、何とか班田制が実施されるまでになったのは、豊前からの移住民の指導による田地開発や耕作技術の向上などがあったからと思われる。従って、安閑天皇の時代に穀物倉に保管するほとの米の生産があったとは考えられない。

それでは、碑文の内容は全く否定されるものなのだろうか。

現在、この碑は見次公民館の裏にあるが、元々は別の場所、見次墓地の近くにあった。しかし、昭和28年(1953年)に開通した国土223号線の建設域にかかり、現在地に移された。

元々碑があったその付近は、以前はドグラノヤボと呼ばれていた。ヤボというのは雑草や竹に覆われた荒れ地のこと、ドグラというのは土倉(どそう)の訓読みと取れる。

平安時代の11世紀に著されたと言われる「類聚三代格」に、農民の便宜や類災防止のために郷ごとに倉院を建てるようにという太政官符が延暦14年(795年)に発せられたことが記載されている。倉院は原則、近在の郷ではその中央に設置することとされていたが、村里離れたところは適宜、郷ごとに院を置いても良いということになっていた。このことは、院で租税を出納することに繋がっていき、それまで郡内の租税出納を担っていた郡司と院司が対立していくことになった、また、郷は本来郡の下の機関であったが、寺社などが領地を郷と称し、郷司が郡司と同様の力をもつようになった。

こうした背景があったのだろう。原口泉氏などの共著の「鹿児島県の歴史」によると、宮内の地域が属した桑西郷は、大隅八幡宮(現鹿児島神宮)の社領として郷を称したとのことである。

桑原郡設置以来、大隅国の田地開発は著しく進んだものと思われるが、建久8年(1197年)の大隅国図田帳によると、大隅国総田は3017町歩余でその内大隅八幡宮領は1296町歩余、大隅国総田の約43%を占めていた。このように大隅八幡宮が所領を広げるに当たっては、摂関家石清水八幡宮と関係があったことが大きかったと思われる。このため、大隅八幡宮は所領から上がる米の保管のため、また摂関家などに納めるための倉院を各地に持っていたことが推察される。

その一つが桑西郷の倉院で、それが桑原屯倉址とされたのではなかろうか。

それでは、桑西郷の倉院はどこにあったのだろうか。

国道223号線の見次交差点先の跨線橋の下に見次団地がある。団地の日豊本線向かい側は空き地になっている。旧隼人町教育委員会作成の隼人町文化財分布図には、ここらに大隅八幡宮別当弥勒院の末寺「西雲寺跡」のマークが付いている。

倉院があった中世は神仏習合の時代で、神社では別当寺が最も大きな力を持ち、神社領地も管理していたようである。従って、大隅八幡宮別当弥勒院の末寺である西雲寺に倉院が設置され、神社領地に係る貢租米等の管理を担ったとしても不思議ではない。また、中世の倉院は類災防止の観点などから村里から離れた場所に建てても良いことになっていたようだが、文永11年(1274年)の元寇文永の役)の後の元寇防塁築造のための石築地役は、宮内地域では内山田村と内村に配附されているが、見次村にはない。このことから、中世期、見次村には田地がほとんどなく、この地は村里離れた場所で、かつ水害の心配のない高台であったことから倉院の適地だったことが想像される。ちなみに、見次での田地開発が進んだのは正徳6年(1716年)の宮内原用水完成後のことである。

さらに、西雲寺跡としているこの場所は、中世の頃、大津川(現在の天降川)の船による交易拠点であった大津港のすぐ近くで、倉院からの貢租米等の積み出しに便利であったと思われる。

こうしたことから、ここに桑西郷の倉院があったのではないかと思う。

ところが、中世末期から戦国の世となり、大隅八幡宮の力は減衰し、倉院は廃止され、西雲寺も廃寺となって荒れ地に化したことから、ドグラノヤボと呼ばれるようになったのではないかと推測する。

ところで、南さつま市金峰町には「我鹿屯倉址」の碑がある。皇祖発祥聖蹟に言う7「田布施屯倉」で、碑文には、日本書紀の我鹿屯倉がここにあったことと、島津氏の年貢米を保管する倉庫があったことが記されている。また、皇祖発祥聖蹟には、宮下の屯倉址とされる付近には船着き場や倉庫があったことが伝えられており、川内の屯倉址とされる地は新田神社の神領収納の施設があったところであると記されている。田布施も宮下川内も屯倉が実際にあったかは疑問視されているが、いずれの地にも何らかの倉があったことから、それが安閑紀の屯倉に結び付けられたのではないかと思う。

桑原屯倉についても同じく、西雲寺の倉があったことから安閑紀の屯倉に結び付けられたのではないかと思う。そして、安閑紀の屯倉ではないのだが、大隅八幡宮の貢租米収納管理の倉があったことから見次(貢)の地名が生まれのではないかと思うのだが。

それでは、桑原屯倉址碑は誰が何時建てたのだろうか。我鹿屯倉址碑は昭和16年田布施村建設となっているが、桑原屯倉址碑についても、皇祖発祥聖蹟発刊の後、当時の西国分村が建てたと考えるのが自然だと思う。

隼人町小田には岩神様と呼ばれる大きな岩がある。左側石碑には「正八幡御降誕地」そして中央石碑には「皇紀二千六百年記念 岩神顕彰事業」と刻まれている。皇祖発祥聖蹟には記されていないのだが、碑文から見て、これも二千六百年記念関連事業だ。このように、県内にはあちこちに、地域が建てた紀元二千六百年記念関連事業と思われる史跡があるのではなかろうか。

国がする。県がする。市町村がする。地域の中でも地名や言い伝えの中に歴代天皇や皇祖に係るものがないか探し出す。そうして、皇国史観が隅々まで広がっていったのではなかろうか。

廃仏毀釈もそうだが、何故みんなが一つの方向に向かってしまったのか、それによりどのような結果がもたらされたのか。紀元二千六百年記念事業に触れることで、そうしたことを考えさせられた。