隼人の乱と熊襲征伐 その1ー隼人塚の建立目的

日豊本線隼人駅の近くに五重塔3基と四天王像4体が建っている。国指定史跡の隼人塚である。指定日は、文化財保護法の前身である史蹟名勝天然紀年物保存法が施行されて間もなくの大正10年(1921年)3月3日で、鹿児島県では最も早い。

指定の理由は、「熊襲の怨霊を慰めるために和銅元年(708年)に建設されたと伝えられる、他に類例のない供養塔と思われる」ということである。

これに対し、霧島市のホームページでは、建立期が平安時代後期、建立理由については「殺されたクマソ・隼人の霊を慰めるために建てられた」とか「正国寺という寺の跡」などの諸説があるとしている。

現在の隼人塚は、平成11年(1999年)から12年にかけて修復・復元されたものだ。

修復前は、小高い丘に石塔2基と石像3体が不完全な形で建っていたが、大隅八幡宮の古記などに「放生会の大路に五重の石塔三基と四天王の石像」があることが記載されていたことから、旧隼人町教育委員会が埋まっていた石塔、石像の構成部を掘り返して修復し、ほぼ原形に復元したのだそうだ。

隼人塚史跡公園の説明板の写真

鹿児島神宮神職を務めていた桑幡公幸氏が明治36年1903年)に著した「國分の古蹟」という書がある。これに「隼人塚一名熊襲塚」という項があり、「景行天皇27年、王命に従わなかった熊襲梟帥を日本武尊が殺した。ところが、この怨霊が祟ったので、霊を慰藉し災難を免れようと和銅元年に四天王の石像及び五重塔三基を建設したが、これが隼人塚に現存するものである」ということが記されている。

これが、大正10年指定の基になっているのではないだろうか。

しかし、石塔の形態や使用されている石材が霧島市国分の国分寺跡石塔と類似しているそうで、建立期は霧島市のホームページにあるように平安後期とするのが正しいようである。

ところで、隼人塚の建立目的について、國分の古蹟では「熊襲梟帥の霊の慰藉」としているが、平成23年(2011年)の霧島市教育委員会大隅八幡宮関連遺跡群総合調査報告書では、「隼人族の冥福を祈る場所で国家鎮護の役割もあったのではないか」としており、隼人の乱により戦死又は捕虜となった隼人の慰霊を主目的と見ているようである。

また、昭和14年(1939年)発刊の鹿児島県史では、「国分地方の伝説によれば、景行天皇の時代に容貌夜叉のような「大人の隼人」というものが隼人城と上井城に據って天皇の命令に従わなかったので、天皇が親征し、日本武尊を副将として拍子橋で討ち取った。その族酋を大人彌五郎と伝えている。その遺蹟と伝えられるものもあるが、これらは寧ろ奈良朝時代の隼人の反乱が伝説化したもので、有名な日本武尊の西征に符号したにすぎないと見た方が穏当と考えられる」と、隼人の乱が日本武尊熊襲征伐にすり替わっていたのではないかと指摘している。

確かに、日本書紀古事記にはヤマトタケルノミコト熊襲征伐の段がある。しかし、記紀にはヤマトタケルノミコト熊襲を殺害した場所の記録はない。

ところが、地元にはその場所が伝説として残っている。

霧島市国分上小川の「京セラ㈱鹿児島工場きりしまR&Dセンター」の向かい側に、霧島市教育委員会が建てた「拍子橋伝説の碑」というのがある。

説明板には、「熊襲頭目であった川上梟帥が橋の上で酒盛りをしておもしろおかしく拍子をとり、踊りを踊ったという話が伝わっている。このことから、この橋を拍子橋と呼びそこを流れる川を拍子川というようになった。・・・現在、橋は残っていないが、この橋付近で川上梟帥が日本武尊に突き殺されたという伝説もある」と書かれている。

このように伝説はあるのだが、以下のようなことを合わせ考えると、どうも、県史が指摘しているように、隼人の乱がこの拍子橋伝説に変節し、これが嚆矢となって他の熊襲征伐伝説に広がっていったのではないかと思えてならない。

養老4年の隼人の乱は、南九州に住む隼人が国守を殺害するという当時の日本の大事件であった。鎮圧のため大和政権は1万人以上の兵を送ったが、戦いは1年数か月に及んだ。この乱は、当時当地に住んでいた隼人の民にとっても、隼人を教導するために豊前から移住させられていた人々にとっても、忘れることの出来ない大変な出来事だったはずで、子々孫々に伝えられていったことだろう。

ただ、古代において農民が文字を使い記録として残すことなど出来たはずがない。ところが、江戸期に入ると各地に寺小屋が開設されるなどして、識字率が一気に高まり、また木版印刷の普及により、農村でも物語などが身近なものになっていったようだ。そうした中、錦絵に描かれるなど人気の高かった日本武尊が活躍する物語は全国津々浦々、農村まで広まり、隼人の乱と記紀に伝わる日本武尊熊襲征伐が混雑していったのではないかと推察する。