隼人の乱と熊襲征伐 その2ー四肢神社

霧島市国分野口に枝宮神社がある。

神社の由緒書きには「当社は、三国名勝図会、薩隅日地理纂考により大人彌五郎別名川上梟帥の四肢が葬られると伝えられる」と記されている。

ちなみに、天保14年(1843年)にまとめられた薩摩藩の地誌である三国名勝図会には「昔、拍子橋で日本武尊が討った大隅隼人の四肢を埋め祭っているので、枝之宮と号していると伝わっている」という社司の話が紹介されている。

また、明治4年(1843年)にまとめられた鹿児島藩の地誌である薩隅日地理纂考には、四肢(ヨツマタ)神社の項があり「日本武尊熊襲梟帥を討って、その手足を四つに裂いて、四ヶ所に分けて埋めたが、ここがその一ヶ所である。もう一ヶ所は福島村にあるが、後の二ヶ所は分かっていない。一説には、熊襲梟帥の祟りが甚だしいので、この社を建てて神様として崇めた。福島村は熊襲梟帥の弓矢を瘞めた跡である」ということが地元に伝わっている記されている。

この三国名勝図会の枝之宮、薩隅日地理纂考の四肢神社に応当するのが、枝宮神社である。

薩隅日地理纂考には「もう一ヶ所は福島村にある」としているが、これに応当するのが、福島鎮守神社である。

この社の由緒書きには「古事記日本書紀に書かれている熊襲伝説を伝えるお宮である。熊襲の頭 川上梟帥を日本武尊が征伐し、梟帥体の一部と弓矢を埋め祀ったと伝えられている」と記されている。

また、鹿児島神宮神職を務めていた桑幡公幸氏が明治36年1903年)に著した国分の古蹟には、熊襲の四肢を埋めたところに関連して「福島に小烏という處あれど」と記されているが、枝宮神社と福島鎮守神社の間には小烏神社がある。

少しそれるが、天降川は鹿児島県北部から鹿児島湾奥に流れ込む延長42km、鹿児島県第三位の河川である。

日本では江戸期以降、洪水防止、新田開発などを目的として、大規模な河川改修が各地で行われているが、天降川でも寛文6年(1666年)に川筋を直すという大規模事業が実施された。

現在の霧島市中心市街地は霧島市役所周辺であるが、ここらは江戸初期までは天降川(当時は広瀬川)が大雨のたびに流動を変える氾濫原であった。このため、南部の台地を穿って川筋が直されたのである。

枝宮神社と小烏神社、福島鎮守神社はこの台地の広瀬川の氾濫原沿いに並んでいる。

それでは、拍子橋で日本武尊が討った熊襲梟帥の四肢が枝宮神社又は小烏神社、福島鎮守神社などの四ヶ所に葬られているのだろうか。

日本武尊熊襲征伐に関連して、三国名勝図会にはもう一つ「鼻面川はその(川上梟帥)の鼻を埋めた」という話が伝わっていると記されている。

四肢神社、鼻面川両方ともに熊襲の頭領の体を埋めたということが、地元に伝わっているということである。

しかし、この言い伝えもまた、次のような理由から養老4年(720年)の隼人の乱での出来事が日本武尊熊襲征伐にすり替わったのではないかと推察する。

枝宮神社と小烏神社、福島鎮守神社は、隼人の乱で隼人が最後まで立て籠った曽於乃岩城、比売乃城を真正面に向き合う場所である。また、鼻面川は曽於乃岩城、比売乃城の真下を流れていた。

厳しい戦いを強いられていた朝廷軍は、隼人を倒すために様々な手段を講じたことだろう。その一つが見せしめにして隼人に恐怖心を抱かせることだったと推察する。

広瀬川や鼻面川の川原は、曽於乃岩城や比売乃城に立て籠っている隼人からはよく見える。そこで体を切り刻むというような残虐な方法で隼人を殺害した。それが地元に語り継がれていく時代経過の中で、拍子橋での日本武尊の川上梟帥誅殺と混同していったのではなかろうか。

なお、霧島市には隼人駅近くの隼人塚の他にもう一ヶ所、国分重久にも隼人塚がある。

こちらの隼人塚は首塚とされており、猪や鹿の肉を33本串に刺す、隼人を殺した故事を伝える神事があった。

この猪や鹿の肉を33本串に刺すというのも、隼人を串刺しにして見せしめにしたことが伝わってきたのではないかと思う。