隼人の乱と浜下り

昨年10月22日の南日本新聞に、直木賞作家の澤田瞳子さんが、鹿児島市で開催された海音寺潮五郎文化講演会での講演で「隼人の乱を調べ、書き進めている」と明かしたという記事が出ていた。わくわくしながら出版を待っている。

ところで、鹿児島神宮浜下りは、隼人の乱で戦った人々のために八幡大神放生会を開いたことが始まりとも謂われている。

隼人の乱は、古代南九州に住んでいた隼人が、養老4年(720年)2月、大隅国守の陽候史麻呂(やこのふひとまろ)を殺害するという、大和政権を驚愕させた「大事件に端を発している。

何故、隼人の乱は起こったのか。

律令制による統治体制を確立しようとしていた大和政権は、その基本となる班田制を南九州にも適用しようとした。しかし、南九州はシラス台地という水田には向かない特殊な土地が広がっている。そこに班田制を一律に適用しようとしたことに無理がある。

大和政権の勢力は、7世紀後半にはすでに南九州に及んでいたようだが、こうしたことなどから、法令に従わない者もいた。このため、大和政権は、和銅7年(714年)に隼人を教導させるため、豊前国から5千人を大隅の地に移住させている。このことは、隼人にとって自分たちの土地が略奪されることになる。こうしたことが重なって不満が爆発した結果、国守の殺害にまで至ったと思われる。

霧島市国分にある韓国宇豆峯神社は、豊前国からの渡来系の移住民が韓国神を遷したものとされている。隼人を教導する立場とはいえ、これらの移住民もほとんどは、意に反して命令で見知らぬ土地に移されたはずだ。

故郷への思いがこの神社建設には込められていたのではなかろうか。

現在の韓国宇豆峯神社、当初は後ろの山頂にあった

事件の後の3月、朝廷側は大伴旅人を征隼人持節大将軍に任命し、1万人の大軍で隼人鎮圧に向かった。

8世紀末頃の編纂とされる律書残篇によると、大隅国は5郡19郷である。

5郡とは、713年に大隅国日向国から分立した時の肝抔郡、贈於郡、姶羅郡とその後、贈於郡から分離した桑原郡であると推定されるが、郷数からして、当時の人口は大隅国全体で2万人位だったのではないかと思われる。

さらにそれを主戦場とされている贈於郡、桑原郡に絞ると1万人位だろうか。しかも辺境の民だ。大和政権側は、短期間で征伐できると思ったいたに違いない。

ところが、いざ戦ってみると簡単にはいかなかった。

八幡宇佐宮託宣集には、隼人が七つの城に立て籠って朝廷軍に抵抗したと書かれている。そのうち五つの城はすぐに落ちたが、曽於の岩城と比売乃城は1年数か月も抵抗を続けた。

朝廷軍の兵士が2か月近く原野に曝されて難儀をしているという記録もあり、朝廷軍にとって、厳しい戦いだったことが分かる。

そして、ようやく養老5年(721年)7月頃に隼人は鎮圧される。この戦いで、斬首されたり、捕虜となった隼人は、1400人にのぼった。

戦いの後、八幡神の神輿を引き立てて、朝廷軍の主力として隼人討伐に参戦していた宇佐地方では疫病が流行し、蜷が異常発生した。恐れた人々が八幡大神に託宣を求めると「これは多くの隼人を殺したからだ。放生会を行うべし」と伝えられ、放生会が実施された。この宇佐神宮放生会を嚆矢として、各地の八幡神社で隼人の霊を慰める放生会がなされるようになった。

それでは、鹿児島神宮浜下りはどうだろうか。

鹿児島神社旧記に「放生会の大路に五重の塔三基と四天王像あり」と記されている。こも五重の塔と四天王像があるところは、浜下りの経路にある隼人塚のことである。

また、同じく浜下りの経路の伽藍神社には、「正八幡宮放生大會」の石柱がある。正八幡宮は、現在の鹿児島神宮である。その他、江戸末期の薩摩藩の地誌などの記録書「三国名勝図会」の記録などからして、浜下りのコースが放生会のコースであったことは間違いないと思われる。

なお、現在の浜下りでは、隼人塚で隼人の慰霊神事が行われ、隼人舞が奉納される。そして、隼人港では鯛が放流される。

隼人塚での隼人舞奉納

この鹿児島神宮の浜下りは、宇佐神宮を嚆矢として実施されるようになった隼人の霊を慰める放生会なのだろうか。

郷土史家の多くは、宇佐八幡宮嚆矢説なのだが・・。

鹿児島神宮浜下りについては、太古から浜下りがあって、それに放生会が加えられたという説もある。また、三国名勝図会には「景行天皇の御代、日本武尊が隼人を誅したところ、その祟りが甚だしかったので、宥めるために種々の祭りをした。正八幡宮の祭りもその一つである」と、鹿児島神宮の浜下りは、独自と思わせる記述がある。

こうしたことも、検討してみる必要がありそうだ。