隼人の乱と熊襲征伐 その3-おびき出し

このブログの「隼人の乱と熊襲征伐 その1ー隼人塚の建立目的」で、「熊襲頭目の川上梟帥が橋の上でおもしろおかしく拍子をとり、踊りを踊ったという話が伝わっており、拍子橋と言うようになった。この付近で川上梟帥が日本武尊に突き殺されたという伝説もある」という拍子橋伝説の碑の由緒書きのことを紹介した。

ところが、三国名勝図会には、「景行天皇の時代に大人の隼人という者が一族数千人を集め、隼人城と上井城に據って王命に従わなかったので、これを攻めたがうまくいかなったので、神々に祈って、この河原で神楽を催した。その拍子が絶妙だったので、隼人は悦楽に堪えず、城を出てきたところを日本武尊がこれを誅したと言う故事から拍子橋と号すようになった」ということが伝わっていると記されている。

この大人の隼人というのは、川上梟帥のことである。

この話は、景行天皇熊襲を神楽でおびき出したというものであるが、一方、八幡宇佐宮御託宣集には、「(隼人の乱の時)傀儡子により、細男の舞を舞わせたところ隼人等は興宴によって敵心を忘れて城中より出てきたので伐り殺した」というようなことが記されている。

三国名勝図会と八幡宇佐宮御託宣集の両方の話を見ると、拍子橋での踊り、傀儡子の舞ともに熊襲又は隼人をおびき出す手段として用いられており、とてもよく似ている。

これもやはり、隼人の乱での傀儡子の舞が、長い年月を経て、地元では拍子橋の踊りに変化して伝わったのではないかと推察する。

八幡宇佐宮御託宣集にある傀儡子の細男の舞は、大分県中津市の「古要神社の古要舞と神相撲」及び福岡県築上郡吉富町の「八幡古表神社の傀儡子の舞と相撲」として伝わっている。いずれも国指定重要無形民俗文化財である。

このうち「古要神社の古要舞と神相撲」について、中津市のホームページでは「奈良時代、九州の南に住む隼人たちが反乱を起こした。朝廷の命令で豊前の国からも軍隊が向かった。しかし、隼人があまりにも強いので、戦場でくぐつの舞いを行った。そしてくぐつの舞いを見物している隼人を攻めたそうだ。その時亡くなった隼人の霊をなぐさめるために、宇佐神宮放生会が始まったそうである。昔は宇佐神宮放生会の時にくぐつの舞いを行っていた」と説明している。