宮内は田の神の空白地帯?

霧島市隼人町宮内の原集落に持ち回りの田の神像がある。大小様々、写真の5体は石像だが、他に木像が2体あり、七つの班がそれぞれの中で持ち回りしている。残念ながら、製造年や由来などは不明である。

私たちがこの原集落の田の神像のことを知ったのは、最近のことである。それまで私たちは、鹿児島神宮周辺地区は田の神像の空白地帯と思い込んでいた。

鹿児島神宮神領内に田の神像がある。高さ91cm、大きなシキ(蒸しき)を被り、右手にメシゲ(しゃもじ)左手にお椀を持った農作業姿神舞型の田の神像で「宮内の田の神」として県の有形民俗文化財に指定されている。背面には「奉寄進、天明元年(1781年)辛丑九月吉日、正八幡宮 田神 沢五右衛門」の刻銘がある。

毎年、旧暦の5月5日に近い日曜日には、鹿児島神宮御田植祭が催行される。祭りでは、この田の神像の前に祭壇が飾られ、田の神に扮した神職が田の神舞を奉納する。

その後、宮内小学校の児童や早乙女、早男が田植えをする。

田植えには、近在の集落ごとの植え場がある。そこでは、トド組と呼ばれる集落ごとの集団が田歌を合唱し、それに合わせながら田植えが行われる。

トド組とは何か。民俗学者の下野敏見氏は「トドは田堵、トド組は八幡神領耕作民の伝統をひく農民たちの組織」と著書の「南日本の民俗文化誌」で説明している。

霧島市隼人町宮内周辺は、嘗ては大隅八幡宮(現鹿児島神宮)領だった所である。即ち、近在の元大隅八幡宮の農民は「宮内の田の神」に豊作を祈願してきたということになる。こうしたことから私たちは「大隅八幡宮耕作民の田の神は『宮内の田の神』だから鹿児島神宮周辺の集落には田の神像は必要なかった」という思い込みがあった。だから、原集落の田の神像を知った時、とても驚いた。

更に調べてみると、原集落以外、朝日など一部の集落にも田の神がある(あった)ことが分かって来た。鹿児島神宮周辺、宮内は田の神の空白地帯というわけではなかった。

原集落などに田の神像があることが分かったことはとても嬉しいことだったが、一方では、田の神像や田歌を保存継承していくための、この地域特有の難しい課題があることも分かってきた。

戦後の高度成長期の中、地方から大勢の若者が都会へ転出して行った。これは、鹿児島神宮周辺の地域も同じだった。ところが、その後国分、隼人地区には京セラ、ソニーなどが進出してきて、そこで働く人などが転入、新しい住宅がたくさん出来た。それにより、この地域の集落では住民の過半数、一部では8~9割が他地区からの流入者という状況になっている。宅地に変わった田地も多く、高齢化と相まって農家人口は著しく減少してきている。その結果、田の神に関心を持つ人や田歌を保存継承できる人も少なくなってきている。

以前は、田歌を歌うのは数え年15歳~25歳までのニセだった(下野敏見氏著)。ところが、今はどのトド組もほとんどが70歳以上、それに農家でない人を加えながら成り立っているというのが実情だ。

オーホオーオーホオーホーホオーホオーホーホオーホオーオーエーヘー

ミゴオーホオーホーオーホーホオーホオホーーハアー

ーヒイーハアーノオージヨオーホホー

トド組のが歌う田歌は集落ごとに違うが、これは、原地区の田歌の一部で「上げ」と言われている部分である。多分、この歌を聞いて何を言っているのか分かる人はいないだろう。ほとんどは囃子言葉で、赤字部分が歌詞のようである。「もののみごとはよしだのじょおか」と歌っているようである。この歌詞部分だけを取り出しても中々意味が分かりにくい。「物の見事は吉田の城か」と読めそうだが、そうすると吉田の城とはどこなのか。原集落の人に聞いても分からなかった。

下野敏見氏によると「田歌の内容は、神社参拝から田植、生育、収穫の過程を歌った叙事詩」だそうだが、そう説明されても中々分からない。

これを独特の節回しで歌う。それを集落に移住してきた人たちに歌ってもらわなければいけないのだ。また、田の神の持ち回り当番は班長が担うそうだが、農家でない人、しかも元々地元でない人も班長になることが多くなってきている。疑問に思っている人がいるのも仕方ないと思う。

こうした中で、集落の長老などが転入してきた人たちに声掛けしながら理解を求め、田の神像の持ち回りや田歌の継承に努めている。大変なご苦労だと思うが、そうした努力によって、地域の貴重な伝統文化が何とか繋がっているというのが現状だ。

二千六百年記念事業 その2ー桑原屯倉(みやけ)址碑

霧島市隼人町見次の公民館裏手に「桑原屯倉址」という碑がある。

裏面には、概略「安閑天皇の時代に、この地に穀物倉の桑原屯倉が設けられた。思うに神代の皇室の縁のあるところだからである。この址は今、見次(貢)の地名になっている。桑原は後の郡名となった」という碑文が刻まれている。

平成9年(1997年)隼人町(現霧島市教育委員会発行の「石碑に刻まれた町の歴史」には、この碑について「昭和15年の紀元二千六百年記念事業で建てられたものではないかと推測されるが詳しいことは不明」と記されている。

屯倉とは、大和王権の大王(おおきみ)が直接開発した直轄地、皇室御料地、もしくはそこにあった穀物倉のことである。

安閑天王は第27代天皇で、日本書紀の記載年を機械的に西暦に置き換えたとするウィキペディアの「上古天皇の在位年と西暦対照表」によると、在位は531年から536年とされる。日本書紀の安閑紀には、この5年間の在位中に全国で41ケ所の屯倉を設置したことが記されている。碑文によると、この屯倉の一つがここにあったということである。

ところで、拙稿 二千六百年記念事業その1ー高千穂宮で、昭和15年(1940年)に鹿兒島史談會が発行した皇祖発祥聖蹟という書が「鹿児島県内各地に見られる二千六百年記念事業関連史跡に繋がりが深いように思える」と書いた。

この書には、安閑天皇が設置した屯倉について、県内では①田布施屯倉 ②隼人の屯倉 ③肝属郡高山町宮下の屯倉 ④川内の屯倉の4ケ所があったと記されている。

日本書紀安閑紀2年5月9日の条に26ケ所の屯倉設置の記録があるが、貢租発祥聖蹟では、この内 ①我鹿屯倉我鹿。此云阿柯とあるのが田布施屯倉 ②桑原屯倉が隼人の屯倉 ③肝等屯倉取音讀とあるのが肝属郡高山町宮下の屯倉 ④婀娜膽殖屯倉が川内の屯倉に比定するとしている。

このうち、桑原屯倉については、①見次という地名が朝貢(みつぎ)だとする説があること ②同地は水運の便が良いこと ③明治期の国学者 飯田武郷が著した「日本書紀通釈」に桑原屯倉については、未詳としているものの大隅國の郡名という記述があること ④高千穂宮所在地であること(宮居所在地については、県内4ケ所に共通している)などが挙げられている。その他、ドグラノヤボとかヤケミトという屯倉に通じるような名が残っていることも理由としている。

皇祖発祥聖蹟=二千六百年記念事業関連の書と思われるが、このように①~④は碑文と通じており、桑原屯倉址碑も二千六百年記念事業関連で建てられた可能性が高いと思われる。

それでは、実際にこの地に桑原屯倉があったのか。それについては、疑問の点が多い。

大隅国日向国から分立したのは和銅6年(713年)である。この時の大隅国の郡は、4郡で、そのうちの囎唹郡を割いて桑原郡が設置されたのは、それから数年後のこととされている。安閑天皇2年は、上古天皇の在位年と西暦対照表をそのまま当てはめると532年である。書紀通釈は、桑原という名が同じものがあると指摘しただけで、桑原郡と桑原屯倉を結びつけたものではないと思われる。

それでは、元々この地名が桑原だったのかというと、それも疑問符がつく。

大隅国建国後、当地に住んでいた隼人に律令制度を教導するために朝廷側は、5,000人とも言われる柵戸を豊前から移住させている。その移民が設置したのが桑原郡で、郡名も移民の故郷にちなんだものだと言われている。

鹿児島国際大学教授などを務めた中村明蔵氏が著した「隼人の実像」という書にも「豊前国には秦氏をはじめ渡来系の人々が多くすんでおり、知識や諸技術において高いものを身につけていた。・・桑原郡と言う名は、(秦氏の指導による)養蚕・機織の殖産をめざしてつけられたとみられる」と記されているように、桑原は大隅国設置後の地名とする説が有力である。

それともう一点、安閑天皇の時代に穀物倉に入れるくらいの米の生産が当地であっただろうか?

大和政権の統治の基本は、民に田を耕させて米を納税させるというもの(班田制)であるが、当地で班田制が実施されたのは、法施行から100年経った延暦19年(800年)である。その理由の一つは、この地はシラス地帯で米作には不向きであったからだとされている。こうした所に、何とか班田制が実施されるまでになったのは、豊前からの移住民の指導による田地開発や耕作技術の向上などがあったからと思われる。従って、安閑天皇の時代に穀物倉に保管するほとの米の生産があったとは考えられない。

それでは、碑文の内容は全く否定されるものなのだろうか。

現在、この碑は見次公民館の裏にあるが、元々は別の場所、見次墓地の近くにあった。しかし、昭和28年(1953年)に開通した国土223号線の建設域にかかり、現在地に移された。

元々碑があったその付近は、以前はドグラノヤボと呼ばれていた。ヤボというのは雑草や竹に覆われた荒れ地のこと、ドグラというのは土倉(どそう)の訓読みと取れる。

平安時代の11世紀に著されたと言われる「類聚三代格」に、農民の便宜や類災防止のために郷ごとに倉院を建てるようにという太政官符が延暦14年(795年)に発せられたことが記載されている。倉院は原則、近在の郷ではその中央に設置することとされていたが、村里離れたところは適宜、郷ごとに院を置いても良いということになっていた。このことは、院で租税を出納することに繋がっていき、それまで郡内の租税出納を担っていた郡司と院司が対立していくことになった、また、郷は本来郡の下の機関であったが、寺社などが領地を郷と称し、郷司が郡司と同様の力をもつようになった。

こうした背景があったのだろう。原口泉氏などの共著の「鹿児島県の歴史」によると、宮内の地域が属した桑西郷は、大隅八幡宮(現鹿児島神宮)の社領として郷を称したとのことである。

桑原郡設置以来、大隅国の田地開発は著しく進んだものと思われるが、建久8年(1197年)の大隅国図田帳によると、大隅国総田は3017町歩余でその内大隅八幡宮領は1296町歩余、大隅国総田の約43%を占めていた。このように大隅八幡宮が所領を広げるに当たっては、摂関家石清水八幡宮と関係があったことが大きかったと思われる。このため、大隅八幡宮は所領から上がる米の保管のため、また摂関家などに納めるための倉院を各地に持っていたことが推察される。

その一つが桑西郷の倉院で、それが桑原屯倉址とされたのではなかろうか。

それでは、桑西郷の倉院はどこにあったのだろうか。

国道223号線の見次交差点先の跨線橋の下に見次団地がある。団地の日豊本線向かい側は空き地になっている。旧隼人町教育委員会作成の隼人町文化財分布図には、ここらに大隅八幡宮別当弥勒院の末寺「西雲寺跡」のマークが付いている。

倉院があった中世は神仏習合の時代で、神社では別当寺が最も大きな力を持ち、神社領地も管理していたようである。従って、大隅八幡宮別当弥勒院の末寺である西雲寺に倉院が設置され、神社領地に係る貢租米等の管理を担ったとしても不思議ではない。また、中世の倉院は類災防止の観点などから村里から離れた場所に建てても良いことになっていたようだが、文永11年(1274年)の元寇文永の役)の後の元寇防塁築造のための石築地役は、宮内地域では内山田村と内村に配附されているが、見次村にはない。このことから、中世期、見次村には田地がほとんどなく、この地は村里離れた場所で、かつ水害の心配のない高台であったことから倉院の適地だったことが想像される。ちなみに、見次での田地開発が進んだのは正徳6年(1716年)の宮内原用水完成後のことである。

さらに、西雲寺跡としているこの場所は、中世の頃、大津川(現在の天降川)の船による交易拠点であった大津港のすぐ近くで、倉院からの貢租米等の積み出しに便利であったと思われる。

こうしたことから、ここに桑西郷の倉院があったのではないかと思う。

ところが、中世末期から戦国の世となり、大隅八幡宮の力は減衰し、倉院は廃止され、西雲寺も廃寺となって荒れ地に化したことから、ドグラノヤボと呼ばれるようになったのではないかと推測する。

ところで、南さつま市金峰町には「我鹿屯倉址」の碑がある。皇祖発祥聖蹟に言う7「田布施屯倉」で、碑文には、日本書紀の我鹿屯倉がここにあったことと、島津氏の年貢米を保管する倉庫があったことが記されている。また、皇祖発祥聖蹟には、宮下の屯倉址とされる付近には船着き場や倉庫があったことが伝えられており、川内の屯倉址とされる地は新田神社の神領収納の施設があったところであると記されている。田布施も宮下川内も屯倉が実際にあったかは疑問視されているが、いずれの地にも何らかの倉があったことから、それが安閑紀の屯倉に結び付けられたのではないかと思う。

桑原屯倉についても同じく、西雲寺の倉があったことから安閑紀の屯倉に結び付けられたのではないかと思う。そして、安閑紀の屯倉ではないのだが、大隅八幡宮の貢租米収納管理の倉があったことから見次(貢)の地名が生まれのではないかと思うのだが。

それでは、桑原屯倉址碑は誰が何時建てたのだろうか。我鹿屯倉址碑は昭和16年田布施村建設となっているが、桑原屯倉址碑についても、皇祖発祥聖蹟発刊の後、当時の西国分村が建てたと考えるのが自然だと思う。

隼人町小田には岩神様と呼ばれる大きな岩がある。左側石碑には「正八幡御降誕地」そして中央石碑には「皇紀二千六百年記念 岩神顕彰事業」と刻まれている。皇祖発祥聖蹟には記されていないのだが、碑文から見て、これも二千六百年記念関連事業だ。このように、県内にはあちこちに、地域が建てた紀元二千六百年記念関連事業と思われる史跡があるのではなかろうか。

国がする。県がする。市町村がする。地域の中でも地名や言い伝えの中に歴代天皇や皇祖に係るものがないか探し出す。そうして、皇国史観が隅々まで広がっていったのではなかろうか。

廃仏毀釈もそうだが、何故みんなが一つの方向に向かってしまったのか、それによりどのような結果がもたらされたのか。紀元二千六百年記念事業に触れることで、そうしたことを考えさせられた。

二千六百年記念事業 その1-高千穂宮址

拙稿「鹿児島神宮ー海幸・山幸物語」で少しふれたが、霧島市隼人町の宮の杜ふれあい公園に「神代聖蹟高千穂宮址」碑が建てられている。

碑文を要約すると

①高千穂宮は、久しい間彦火火出見尊の皇居であった。また神武天皇が兄の五瀬命と東遷について話し合ったところである。

鹿児島神宮神域及び石體神社並びにその周辺が高千穂宮址である。

紀元2600年に当たり、高千穂宮址に遥か昔の建国を偲び、敬うために碑を建てて永遠に伝える。というようなことのようである。

碑文にあるように、この碑は二千六百年記念事業として建てられたものだ。

二千六百年記念事業として建てられた碑は、鹿児島県内あちこちにあるのだが、関心を持つ人は少ないようである。尤もこの事業が実施されたのは戦前であり、紀元という紀年法も多くの人には、なじみがないからだと思う。

ここで言う紀元は、皇紀即ち神武天皇即位紀元で、神武天皇が即位した年を元年とする日本独自の紀年法である。現在では、紀年法に西暦と元号が使われることが多いが、戦前まではこの紀元と元号が一般には使われていた。そして昭和15年(1940年)が神武天皇即位二千六百年に当たるということで、全国的に大々的に記念事業が実施された。これが紀元二千六百年記念事業である。

国の方針を受けて、各県でも様々な事業が実施された。

それでは、鹿児島県ではどうだったのか。昭和42年(1967年)発刊の鹿児島県史(5巻)に次のようなことが記されている。

昭和15年は紀元260年にあたり国をあげて奉祝気分がみなぎった。

②本県は皇祖発祥の霊域であり、肇国(ちょうこく・・建国)の聖地とされていた。

③県では、2600年を記念して、神代並びに神武天皇聖蹟調査会を組織し、古事記日本書紀の神話ないし伝説に基づき、関係地名に関する調査研究がとげられた。

昭和15年11月10日神代聖蹟10件が、11月29日神武天皇降誕伝説地5件が告示してされた。

⑤但し、この指定は今日においては学問上疑問の点も少なくない。

なお、④にある告示指定された15件は、県史別巻に鹿児島縣指定史蹟表として記載されているが、その指定の1件が神代聖蹟高千穂宮で、姶良郡隼人町となっている。

ところで、この高千穂宮とは何なのか。

古事記に「高千穂宮で彦火火出見尊が580歳まで過ごされた」「高千穂宮で神武天皇が兄の五瀬命と東遷について話し合った」というような記録がある。この高千穂宮のことである。ところが、古事記には高千穂宮が何処にあったのかは記されていない。

紀元2600年記念事業は、国が大々的に実施しているが、事業の一つに神武天皇聖蹟調査が行われ、神武天皇東征の聖蹟・遺功を讃える顕彰碑が19カ所に建てられた。

調査時点で高千穂宮が鹿児島県と宮崎県から対象として挙がっていた。しかし、証拠が十分でないので聖蹟として決定できないとされた。

「皇祖発祥の聖蹟地である」と自認していた当時の鹿児島県にとって、この決定は大いに不服だったのは当然で、こうしたことから、県独自で「神代並に神武天皇聖蹟調査」を実施することになったようである。

それでは何故、高千穂宮は霧島市隼人町宮内(鹿児島神宮神域及び石體神社並びにその周辺)なのか。

昭和15年6月に鹿児島史談會が発行した皇祖発祥聖蹟という書がある。

著者は、同会会長で沖縄県知事鹿児島市長などを務めた岩元禧氏で、行政機関や歴史家の協力を得て著したものであるが、この書が、昭和15年告示指定の神代聖蹟及び神武降誕伝説地さらに県内各地に見られる2600年記念関連史蹟に密接に繋がっているように思える。

この書には、高千穂宮については碑文と同じく「鹿児島神宮神域及び石體神社並びにその周辺が高千穂宮址である」と記されている。

一方、薩摩藩国学者 白尾國柱が寛政7年(1795年)に著した麑藩名勝考には「石體(神社)は彦火火出見尊が初め都したところで、ここに神廟を建て石の御神体を安置した。これが鹿児島神社(現鹿児島神宮)の原処である」記されている。また、鹿児島神宮神職を務めた桑幡公幸氏は、明治36年1903年)に著した国分古蹟で「今の鹿児島神宮の場所が高千穂宮である」と言っている。

こうして見ると、高千穂宮又は彦火火出見尊が初め都にしたところについて、麑藩名勝考や国分古蹟では一つの場所を挙げているのに対し、皇祖発祥聖蹟では、両方の場所を含んだ広いエリアだとしている。捉え方にに違いはあるものの、いずれの書も私たちの住む宮内に彦火火出見尊の都があったとしていることにちがいはない。ただ、麑藩名勝考では石體神社だけが高千穂宮址だと言っているかというと、どうもそうではないようである。

ここからは、神話の「海幸・山幸物語」になってくるわけだが、麑藩名勝考では「瓊瓊杵尊崩御彦火火出見尊は石體神社を宮居とする→兄の火闌降命の釣り針を失くす→綿積の宮で釣り針を見つける→内之浦の海岸に帰り着く→彦火火出見尊は薩摩・大隅を兄の火闌降命に譲り都城に遷都する」となっている。

そうすると、高千穂宮が2カ所あったということになるのだろうか。

日本書紀に「彦火火出見尊が亡くなって、日向の高屋山上陵に葬られた」とある。

この高屋山上陵について、麑藩名勝考は「肝属郡内之浦郷小串村國見岳山頂である」と記している。ところが、明治7年(1874年)に高屋山上陵は溝辺村(現霧島市)に治定された。鹿児島神宮や石體神社に近い場所にだ。

皇祖発祥聖蹟では「御陵の近くに都があったはず」「高千穂宮が複数あるはずがない。神武天皇が兄の五瀬命と東遷について話し合った高千穂宮もこの鹿児島神宮周辺だ」としており、なるほどと思う。

ただ、鹿児島県史(5巻)で「この指定は今日においては学問上疑問の点も少なくない」と指摘しているように、史実として高千穂宮があったかどうかは分からない。しかし、鹿児島神宮関係の旧記に「鹿児島神社は彦火火出見尊が大宮を建てた旧趾」という記録などがあるということは、それを示す何かがあったということだろう。また神代聖蹟高千穂宮が昭和15年に鹿児島県の史蹟に指定されたことも事実で、それ自体にも歴史的な価値があると思う。

なお、皇祖発祥聖蹟は「高千穂宮が此湾内沿岸隼人町に建てられて、三個國経営の中心となったのである」としており、また麑藩名勝考は「彦火火出見尊は、この宮内の後、日向の地に遷都され、この地は兄の火闌降命に与えたことで、その子孫が大隅・薩摩を領有した」としている。こういう記事を見ると、皇祖発祥聖蹟や麑藩名勝考は、彦火火出見尊が治めたのは、大隅、薩摩、日向の三ヶ国だとしているのではないかと思ってしまう。

古事記日本書紀の国譲りを見ると、彦火火出見尊が治めていたのは、葦原中国だと思うのだが・・?

高千穂宮から日本全体を統治したという話に何故ならないのだろう。不思議に思う。

皇祖発祥聖蹟は、宮内から高千穂峰が見えることも根拠としている

 

茶わん虫の歌ー鹿児島弁

オムニバスが盛んな頃、鹿児島のバスガイドが車中披露する歌は「南国情話」と「茶わん虫の歌」が定番だった。

「南国情話は、若山彰と熊沢佳子のジュエット曲で、こまどり姉妹も歌った。「岬の風に泣いて散る」という出だしで、ヒットしていた。これに対して「茶わん虫の歌」は、鹿児島だけの地域限定、しかし鹿児島では誰もが知っているというような歌だった。それが、10年位前にNHKEテレにほんごであそぼ」で放送され、全国的にも多くの人に知られるようになった。

「茶わん虫の歌」が生まれたのは、約100年前の大正10年(1921年)、西国分村立(現在の霧島市立)宮内小学校で教職に就いていた石黒ひで先生が学芸会での劇中歌として、作詞、作曲したものである。宮内小学校の正門には、その碑が建っている。

「茶わん虫の歌」はリズムが軽快だ。そして鹿児島弁の歌詞がとにかく面白い。

霧島市立宮内小学校のホームページでも聴くことが出来る。但し、少し音質が悪いので、幾つも紹介されているユーチューブの方が良いかもしれない。楽しくなると思うので、聞いて欲しい。

歌は「うんだもこら いけなもんな」で始まる。多分、この最初から意味が分かりにくいだろう。標準語で言えば「あらっ? それはどういう物だろうか」というようなことになる。

確かに「茶わん虫の歌」は知られるようになった。しかし、歌詞にあるような鹿児島弁はどうだろうか。年々廃れてきているのではなかろうか。そう思うと寂しい気がする。

ところで、「茶わん虫の歌」の鹿児島弁は、以前の一般生活の中で使われていた鹿児島弁だ。ところが、鹿児島弁にはもっと丁寧な形がある。こちらの方が本来の鹿児島弁だと思う。

鹿児島に「湯豆腐の権兵衛」という居酒屋がある。

私は、半世紀くらい前、ここによく通っていたが、当時のおかみさんが使っていたのが、丁寧な鹿児島弁だった。

店に入ると「ゆくせかおさいじゃした(ようこそおいでくださいました)」と迎える。「おかべをたもいやしか(豆腐を食べますか)」と注文を聞く。「きゅもはだもっのよかひごわしたなあ(今日も気持ちの良い日でしたね)」などと会話がはずむ。「あいがともさげもした(有難うございました)」と言われながら店を出る。和やかな酔い心地で帰るものだった。

京言葉が上品だと言われるが、私はこの丁寧な鹿児島弁が京言葉に優る上品でやさしい言葉だと思っている。

しかし、丁寧な鹿児島弁にしても一般生活の中で使われていた鹿児島弁にしても、使う人がほとんどいなくなった。「こんちゃらごわした(こんにちは)」と挨拶しても、50歳以下の人たちはキョトンとするばかりだろう。カタカナ造語が氾濫する中、仕方ないかとも思う。

だが、希望がないわけではない。方言回帰の動きもある。地元のMBCラジオなどでは、方言の番組がある。鹿児島弁の五・七・五で表現する薩摩狂句の会も各地で盛んだ。鹿児島検定も実施されている。

あちこちで、鹿児島弁を大事にしたいと思う人も増えてきているようだ。

こういう取り組みの広がりで、やがてまた鹿児島に生まれた鹿児島の言葉、鹿児島弁を巷で誰もが使うようになって欲しい。

防災フェスタ

11月26日に霧島市隼人町宮内地区自治会連絡協議会及び宮内まちづくり委員会が主催する防災フェスタが、宮内小学校及び宮内公民館で開催された。

宮内地区全体で、このような防災の催しが実施されるのは初めてのことだった。

今から30年前の平成5年(1993年)7月31日から8月6日にかけて、鹿児島県本土は異常に激しい大雨に見舞われ、大規模崖崩れや河川氾濫が発生し、県全体で72人、霧島市でも17人が亡くなった。

ところが、30年も経つと当時を知る人は少なくなっているとともに、その後霧島市では大きな災害は発生していないこともあって、住民の防災意識の低下が懸念されていた。こうしたこともあって、防災訓練の必要に迫られていた。しかし、こうした住民意識の中、避難訓練だけでは住民の関心を集めることは難しいと思われた。そのため今回のフェスタは、イベント性を持たせたものとして実施された。

フェスタでは、消火訓練、放水訓練、避難訓練を始め、防災に関連した自衛隊、消防、警察車両の展示と試乗体験、自衛隊、消防服の試着、AED体験、公衆電話の使い方実習、非常食の試食、30年前の災害状況や災害危険個所の写真展示など多彩なプログラムが盛り込まれた。

消火訓練では消火器の使用が割合簡単だと感じたようだ

避難テントやAED体験、公衆電話の実際通話などができるブース

消防車の試乗体験

麺つゆを使ったおにぎりなどの炊き出し訓練

防災講習の講師は、熊本地方気象台長などを務められた用貝敏郎氏だった。30年前の災害の教訓や線状降水帯の発生メカニズムなどを図示して丁寧に説明してくれた。

講演や体験で緊張感が漂う中、子供たちに防災コーナーを回ってもらうスタンプラリーや防災ぬりえ、防災川柳コンテストも実施され、楽しみながら防災に関心を持ってもらう工夫もなされていた。

参加者は、地区住民の1割に当たる約800人だった。

異常気象が頻発する中、世界中で大きな災害が発生しているが、それはこの宮内も例外ではない。いつ30年前と同じような又はそれ以上の災害が発生するかもしれない。その時に、いかにして命を守るのか。「避難に空振りは許されるが、見逃しは許されない」ということを学んだ。そして、避難所ではどのような準備、行動が求められるのか、肝に銘じさせられたフェスタであった。

鹿児島神宮 二の鳥居

鹿児島神宮には二つの鳥居がある。

参道入口のコンクリート造の朱塗りの大きな鳥居が一の鳥居で、参道入口の石造の鳥居が二の鳥居である。

二の鳥居には、明治40年(1907年)8月吉日建設と刻まれている。

江戸時代後期の薩摩藩の地誌、三国名勝図会写図に鹿児島神宮社殿の全体が描かれているが、そこには二の鳥居は描かれていない。ということは、江戸後期までは二の鳥居はなかったと思われる。

奉納主は、大隅国加治木町(現姶良市加治木町)の小杉恒右衛門さんである。

小杉さんは、江戸末期から大正にかけての人で、西南の役に従軍している。

西南の役の後に、小杉薬舗合名会社を経営、町内各地に井戸を寄進するなどの篤志家だったそうだ。また、神様を敬う気持ちが強かったようで、鹿児島神宮の他、霧島神宮、新田神社などにも建築材として有名な加治木石のなかでも特に質の良いとされる二間瀬石を使用した鳥居を献納している。

鹿児島神宮の二の鳥居

ところで、この小杉恒右衛門さんだが、加治木郷土史に「西郷隆盛の最後を見届けたことを終生自慢していた」ということが記されている。

西南の役には、武士や郷士だけでなく当時の身分制度での平民も志願兵として従軍している。小杉さんもこの戦いの前までは、薬店を営んでいた森山商店で働いていたということだから、志願兵だったと思われる。所属したのは、別府晋介の六番隊の従卒だった。西郷隆盛の駕籠を担いでいたともいわれている。

明治10年(1877年)9月24日、西南の役で敗れた西郷隆盛は、鹿児島市の城山の麓の岩崎谷で切腹する。介錯したのは別府晋介だと言われている。「晋どん、もうここらで良かろう」という西郷の言葉で良く知られているところだ。

こうした状況を小杉さんは見ていたということだろう。

南洲翁終焉之地碑

西郷の切腹の後、西郷に最後まで付き従っていた別府晋介村田新八桐野利秋、辺見十郎太らは切腹したり、自刃したり、敵弾に撃たれたりして殉死している。しかし、従卒の小杉さんは平民だったことから、殉死を免れた又は殉死することを許されなかったのではなかろうか。

小杉さんは、西郷隆盛の最後を見届けたことを自慢していたが、その時がどのようであったかは、話すことはなかったそうである。

ところで、この鳥居にはコンクリートで塗り込められたところがある。

この鳥居が建てられた明治40年日露戦争の後で、我が国の戦意が高揚していた時である。こうした時代背景があったのだろう。そこには、東郷平八郎が起案した「敵艦降伏」の文字が刻まれていた。しかし戦後、進駐軍の目に入らないように、この文字は塗り込まれてしまったということである。

 

 

センニンソウの実

長い夏が終わり、農作業も随分気持ちよく出来るようになってきた。

ススキも伸びきったので「これが今年最後だろう」と思いながら土手の草を払っていると、不思議な、花みたいなのが目に入った。Google Lensで調べてみると、センニンソウの実だった。

夏にこの場でセンニンソウの花を見た時に、その可憐さにしばし見とれたが、この実も奇妙な形で美しい。目を奪われてしまった。

この土手の草は、20年も払ってきている。それなのに、センニンソウの実や花に気付いたのは今年が初めてだ。これまで見逃していたのだろうか。こんなに目を引く実、花なのに?

同じ土手には、ツルマメとヘクソカズラも実を付けていた。

ツルマメの実は、正しく名は体を表すだ。ツルに豆が成っている。これもこの土手では初めて見た。ただ、この実は地味だ。今度は、センニンソウの実に惹かれて回りも注意して見たから気付いたのだが、多分、これまでもあったのだろう。気付かなかっただけなのだろう。

ヘクソカズラは定番だ。と言うより、これまでこの土手にあるのはヘクソカズラだけだと思っていた。だから、つる草は全部仮払機に絡みつく厄介なやつだと思っていたが、センニンソウがあると分かったことで、少し親しみを持てるようになった。

ヘクソカズラの実

山側の土手には、ムカゴ(山芋の実)が成っていた。こいつは、塩蒸しにすれば焼酎の付き出しに最高だ。