鹿児島神宮 二の鳥居

鹿児島神宮には二つの鳥居がある。

参道入口のコンクリート造の朱塗りの大きな鳥居が一の鳥居で、参道入口の石造の鳥居が二の鳥居である。

二の鳥居には、明治40年(1907年)8月吉日建設と刻まれている。

江戸時代後期の薩摩藩の地誌、三国名勝図会写図に鹿児島神宮社殿の全体が描かれているが、そこには二の鳥居は描かれていない。ということは、江戸後期までは二の鳥居はなかったと思われる。

奉納主は、大隅国加治木町(現姶良市加治木町)の小杉恒右衛門さんである。

小杉さんは、江戸末期から大正にかけての人で、西南の役に従軍している。

西南の役の後に、小杉薬舗合名会社を経営、町内各地に井戸を寄進するなどの篤志家だったそうだ。また、神様を敬う気持ちが強かったようで、鹿児島神宮の他、霧島神宮、新田神社などにも建築材として有名な加治木石のなかでも特に質の良いとされる二間瀬石を使用した鳥居を献納している。

鹿児島神宮の二の鳥居

ところで、この小杉恒右衛門さんだが、加治木郷土史に「西郷隆盛の最後を見届けたことを終生自慢していた」ということが記されている。

西南の役には、武士や郷士だけでなく当時の身分制度での平民も志願兵として従軍している。小杉さんもこの戦いの前までは、薬店を営んでいた森山商店で働いていたということだから、志願兵だったと思われる。所属したのは、別府晋介の六番隊の従卒だった。西郷隆盛の駕籠を担いでいたともいわれている。

明治10年(1877年)9月24日、西南の役で敗れた西郷隆盛は、鹿児島市の城山の麓の岩崎谷で切腹する。介錯したのは別府晋介だと言われている。「晋どん、もうここらで良かろう」という西郷の言葉で良く知られているところだ。

こうした状況を小杉さんは見ていたということだろう。

南洲翁終焉之地碑

西郷の切腹の後、西郷に最後まで付き従っていた別府晋介村田新八桐野利秋、辺見十郎太らは切腹したり、自刃したり、敵弾に撃たれたりして殉死している。しかし、従卒の小杉さんは平民だったことから、殉死を免れた又は殉死することを許されなかったのではなかろうか。

小杉さんは、西郷隆盛の最後を見届けたことを自慢していたが、その時がどのようであったかは、話すことはなかったそうである。

ところで、この鳥居にはコンクリートで塗り込められたところがある。

この鳥居が建てられた明治40年日露戦争の後で、我が国の戦意が高揚していた時である。こうした時代背景があったのだろう。そこには、東郷平八郎が起案した「敵艦降伏」の文字が刻まれていた。しかし戦後、進駐軍の目に入らないように、この文字は塗り込まれてしまったということである。