孤高の歌人 浜田到トークセッション

約50年前、前衛短歌の旗手として、塚本邦夫、寺山修司らとともに前衛短歌の旗手として高い評価を受けていた、浜田到についてのトークセッションが次のとおり開催されます。

1 日時 11月4日(土)14時から

2 場所 霧島市隼人町見次1371(ホテル京セラ隣) 「サン・あもり」

3 入場 無料

 

関白陣

雨の日は、農作業を休んで温泉に行くことが良くある。

何時もは、地元霧島市の日当山や安楽の温泉に行くのだが、この前は少し足を延ばして、伊佐市の針持温泉に行ってみた。透明ですべすべした湯で「つるつる美肌美人の湯」を標榜しているのも納得だった。

針持温泉

その大浴場の湯口に「関白陣」の銘があった。由来があるのではと思い、受付に聞いたところ「向こうの休憩室に説明書きがあります」と教えたくれた。

針持温泉の関白陣由来説明板

確かに説明書きがあった。しかし、少しかすれたところがあちこちあって読みにくい。しかし、リアリティがあり、面白い内容であることは分かるので、自分なりに次のように読み取ってみた。

関白陣の由来

大口城主新納武蔵守忠元は、秀吉が大口方面に入ったと聞いて交戦するため、菱刈、曽木あたりは伊知地重康が、大口方面には忠元が陣を張った。

1587年5月20日秀吉の先発隊は、秀吉の人質となって機嫌をとっていた伊集院幸侃の案内でこの天堂が尾の頂上に陣をおいた。ここはさして高くないが大口市が全眺され、大口勢の動きが見てとれる格好の場所である。

忠元は、秀吉軍の食糧が無くなったと知って、米一俵を送り届け「この米で腹をふくらませ、大口に攻め込んでおいで」と伝えた。秀吉はその豪胆さに驚いた。

石田三成は、忠元に降参するように説得したが、忠元は「いくら島津喜寿姫が人質にされているとは言え、国のために死ぬのは何ともない」と言って手向かう態度をとったので、三成も秀吉も困った。秀吉軍は大軍とはいえども食べていないから戦えなかったのであるが・・。

義久公、義弘公からも「自分たちが降参したのだから忠元も降参する様」と使いが来た。忠元も主君のことばで仕方なく、5月26日天堂が尾に出向した。忠元も髪を剃り馬に乗って、羽月川は大洪水だったので、菱刈の方から天堂が尾に着いた。そして関白秀吉と会見したのである。

秀吉が陣取ったところは、東西約30メートル、南北60メートル位の草地で石垣がめぐらされ、その中に1メートル60センチメートル平方の盛土をしたところがある。ここは、細川や加藤や石田などの武将の陣跡と言い伝えられている。なお、南方に清泉が湧くところは軍兵の用水となったところだろうし、西や東の原野に軍兵がさぞかし、うようよしていたことと想像される。忠元は、秀吉と相対して酒を飲み、笑いこけていたと言う。敵の陣地へ来て平気で笑っている忠元を見て、熊本城主細川幽斉もあきれた。この田舎侍がと思い「口のあたりに鈴虫ぞなく」と、忠元の長いあごひげを冷やかす意味で和歌の下の句を言ったら、忠元はすかさず「上ひげをチンチロリンとひねり上げ」と、上の句を付け加えたので、文武にたけた武将であると皆感心したと言う。秀吉は長刀を与えた。

秀吉は「お前一人でわが秀吉軍と戦うか」とたずねると「義久公が兵を挙げればその先頭に立って、秀吉軍を攻め滅ぼしてみせます」と言ってのけた。秀吉も忠元には一目置く様になり、他の島津氏と同様の扱いをするようになった。この時から、この地を関白陣と言う様になった。

大正5年当時の青年団が碑を立てた。

大口市史蹟伝説誌より抜粋

関白陣の由来というより、秀吉に全く臆することなく渡り合った、新納忠元の人物像を説明したものと見た方が良いような内容であるが、それにしても痛快な感じがする。

この中で「忠元も髭を剃り」というのは、島津義久が剃髪して秀吉と会見したことに倣ってということだと思われる。また、即座に鈴虫の触角を上髭に結び付けて歌にするなどは、予てから余程、和歌に手慣れていたということだろう。ただ、島津義久が一番可愛がっていたとされる喜寿の命を軽んじているようなところがあるのは、少し腑に落ちない。

説明板を見た後、関白陣に行ってみたいと思い、受付に場所を聞いたところ「関白陣というバス停から上に行く道がある」と教えてくれた。

関白陣のバス停は、針持温泉から二つ目だった。そこから、林道を1キロメートル位登ったところが広場になっており、伊佐市教育委員会の「天堂ケ尾(関白陣)」という説明板があった。

伊佐市教育委員会の説明板

この説明板を見て「ここが忠元と秀吉の会見の場」と思ってしまったが、どうやらそれは早とちりだったようだ。

江戸期の薩摩藩の地誌「三国名勝図会」には、天堂ケ尾関白陣について

俗に関白陣と言う。天正15年(1587年)豊関白が薩摩川内の水引泰平寺から兵を向けた時の陣屋跡である。高い野岡で松の木の生い茂った広々としたところだ。北北東には大口城が遥かに見える。陣屋跡には東西14間(約25メートル)、南北(約67メートル)を削り平にして石垣が所々残っている。その中に5尺(約1.5メートル)四方位の土台を築いた所が関白の輿を置いた所だと言われている・・と説明しており、挿絵もある。

三国名勝図会の天堂箇尾挿絵(国立国会図書館デジタルコレクションから)

これを見ると、秀吉が陣屋を置いた関白営は天堂ケ尾の山頂で、平に削られ、中央には軍議場みたいなものも見える。

なお、ネットには「天堂ケ尾(関白陣)に行った」と投稿している人が何人もいるが、そのほとんどが山頂だ。

それでは、私が行った伊佐市教育委員会の説明板のあるところは何だったのか。

後で聞いた地元の人の話から推察すると「天堂ケ尾は、秀吉が陣を敷いたので関白陣と呼ばれるようになったのだが、秀吉が去り、時がたつにつれて山頂までの道は木々に覆われて、簡単に行けるところではなくなった。そのうち、途中まで林道が出来たので、そこに伊佐市教育委員会の説明板が設置されたのだろう。ところが、その後山頂に電波塔が出来て、車の通る道も整備されたので、山頂に関白陣の説明板が設置され、また途中には道案内板も設置された」ということのようである。

私は、情報不足で、伊佐市教育委員会の説明板が設置されている場所が関白陣だと思い込んでしまったのだ。

ただ、標高306メートルの丘全体が天堂ケ尾であり、関白陣であろうから、伊佐市教育委員会の説明板が設置されている場所も関白陣であることは間違いないだろう。山頂は、関白陣の中の秀吉が陣を置いた関白営ということになるようだ。

なお、三国名勝図会には、忠元について「忠勇絶倫、慷慨にして智謀あり、且つ和歌を善くす、本藩中興の戦功居多なり、其名海内に著はる。當時薩藩の名将を數ふるに、必ず稱首たり、豊関白西侵の時、其勇畧に憚り、特に其人質を取て帰る」と記されており、忠元のことを、忠義心、勇気が抜群であり、知略に優れ、和歌も嗜む、当時の薩摩藩の中でも一番に挙げられる名将であると評している。

 

 

椎茸の芽吹き

私の畑は、中山間農地だから山に囲まれている。その内、後の雑木山の約3,000㎡が私の山だ。ここで少し椎茸を栽培している。

椎茸は、気温15度くらいになると芽吹いてくる。日中はまだ暑いが、ここ数日、朝晩はひんやりしてきた。昨年は、10月19日に数個取っている。まだ、地元のスーパーの生産者コーナーには出ていなかったが、昨日、山に入ってみた。

本当は、夏の間に山の手入れをしないといけないのだろうが、春以来ほったらかしにしていたので、ササクサが種子を持ちひっついてくる。それをかき分けながら、例年早く出る上の方のホダ場を見たが全然無かった。「まだ早いか」と思いながら、期待薄の下の方のホダ木2本に数個小さなのが付いていた。芽吹いたばかりのものだ。明後日には食べられる大きさになるはずだ。

世間では、椎茸は乾燥したものを戻して食べるのが美味しいと言われているが、私は生が好きだ。アルミホイルで包んで蒸して食べると、焼酎の最高の肴だ。これからが楽しみだ。

山に入ると他のキノコも目にする。昨日もいくつかの種類のキノコがあった。シメジのようなのは食べられるかもしれない。しかし、キノコはネットなどで調べても同じようなのが多くて名前も分かりにくい。毒キノコだったらと思うと怖くて食べる気にはならない。

 

竹下勇と久木村治休

東京原宿の竹下通りの名称は、大正末期の連合艦隊司令長官・海軍大将の竹下勇の邸宅があったことに由来するとも言われている。

鹿児島神宮境内入口のすぐ左側一角に「征清役従軍紀念碑」「三十七八戦役従軍碑」「三十七八戦役忠魂碑」が並んでいる。征清役は日清戦争明治27年(1894年)~28年)、三十七八戦役は日露戦争明治37年(1904年)~38年)であるが、このうち、征清役従軍紀念碑に海軍大尉竹下勇の名がある。

征清役従軍紀念碑には「明治27年に起きた日清戦争に勝利し、台湾を領有するなど戦果をあげたことは、祖先の助けや国民の忠義があったからだ。このことを当村従軍者の名を刻んで後世に残す」というようなことが刻まれている。当村とは、当時の西国分村、現在の霧島市隼人町の一部である。

竹下勇も西国分村出身で、明治2年(1869年)生まれ、海軍兵学校を80人中3番目の優秀な成績で卒業している。日清戦争当時は25歳だった。

竹下勇と並んで陸軍大尉久木村治休の名がある。

文久2年(1862年薩摩藩国父島津久光が幕政改革を企図して江戸に出向いての帰り、生麦村(現神奈川県)に差し掛かったところで、馬に乗った4人のイギリス人と行き合った。久光の行列は400人余りだったという。藩主の父である久光の行列がどういう意味を持つのか分からなかったのだろう。藩士が制するのにも関わらず4人は行列を割るように進んだ。そして、久光の駕籠に近づいた時、藩士数人が切りかかった。4人は逃げようとしたが、3人が切られ、うちリチャードソンは絶命している。

駕籠の前で、リチャードソンに一撃を浴びせたのは奈良原喜左衛門で、さらに逃げる途中で致命傷を与えたのが鉄砲隊の久木村治休だとされている。

幹部候補生の竹下勇が、若くして大尉になったのは分かる。しかし、生麦事件でリチャードソンに致命傷を与えた久木村治休が、陸軍大尉として日中戦争に従軍しているというのには、なかなか理解し難いところがある。事件の後、薩摩藩は幕府に「切ったのは、岡野新助という足軽だった。行列に割り込んできた異人を切って逃げた。行方を探索中である」と虚偽報告をしており、実際に切った藩士は不問にされたということのようだが・・。

霧島市隼人町の住吉墓地に久木村治休の墓がある。「参戦 戊辰役 西南役 生麦事件 薩英戦争 日清役 日露役」などの銘が入っており、没年は昭和12年(1937年)11月20日、享年95歳と刻まれている。

生麦事件の時が19歳、そして日露戦争の時が62歳である。若い時から老いの半ばまで戦役の中に身を置いていたことになる。亡くなったのは95歳、とてつもない長寿である。波乱の人生を送りながらも天寿を全うしているということが、墓碑から伝わってくるような気がする。

なお、久木村治休と竹下勇は、叔父と甥の関係である。

雑草の花

夏の間に蔓延った雑草に小さな花が咲きだした。

雑草は、これまでは何も考えずに刈り取っていた。

しかし、NHKの朝ドラの影響だろう。小さな花が可憐に見えてくる。雑草の名前にも関心が出てきた。

こんな時に役立つのはグーグルレンズだ。とても有難い。

中山間での無農薬農業は、草、虫、獣との戦いだが、こうして雑草の花を関心を持って見れば、収穫以外の楽しみも出る。

ツルボ

ザクロソウ

ツルマメ

野菊

 

安産祈願のお宮 石體神社

「石體の神のやしろに小石つむ この縁さえ愛しかりけれ」

霧島市隼人町の宮の杜ふれあい公園に、昭和15年発行の斎藤茂吉の歌文集「高千穂峰」に掲載されているこの歌の歌碑がある。

斎藤茂吉歌碑

石體(しゃくたい)の神のやしろとは、鹿児島神宮の摂社の石體神社のこと。昭和14年10月6日に斎藤茂吉は、鹿児島神宮、石體神社を訪れている。

石體神社は安産の神様として有名で、戌の日に安産祈願祭が行われる。

石體神社

妊婦は、神職のお祓いを受けた後、境内に積まれた御石を1個持ち帰る。そして、無事に主産したら、川原のきれいな小石2個をお返しするのが習わしとなっている。

この石を持ち帰り、無事生まれたらここに2個お返しする

「小石つむ」とは、この持ち帰り、お返しする御石のことである。

石體神社の御祭神は、彦火火出見尊と豊玉比売命である。

記紀に「豊玉比売命が産気づいたので、尊は鵜の羽根で産屋を作っていたが、屋根を葺き終わらないうちに御子を産んだ」ことが記されている。御子は鵜葺草葺不合尊、神武天皇の父君である。豊玉比売のお産が鵜の羽根の産屋を葺き終わらないうちに産まれるほど安産であったということで、彦火火出見尊と豊玉比売命を祀る石體神社は安産成就のお宮として厚く信仰されている。

一方、鹿児島神宮神職を務めていた桑幡公幸氏が明治36年1903年)に著した「國分の古蹟」には「石體神社の祭神は昔より神功皇后と伝えられており、神功皇后三韓を征伐した時、胎中の皇子が生まれようとしたので、石を腰に挟んだら産気が治まり、凱旋の後安産したという古事に基づいて、産婦はこの神社の石を腰に挟めば平産すると世の人が崇敬してきた」と記されている。

このように、石體神社が安産のお宮と信仰されている由来には二つがあるようである。

ただ、現在の石體神社の御祭神は彦火火出見尊と豊玉比売命である。

少しごちゃごちゃしてしまうが、もう一つ、石體神社は石體(いわた)帯の神社とも謂われている。

妊婦が妊娠5ケ月の戌の日に巻く腹帯が岩田帯であるが、石體神社の石體帯は、神功皇后が腰につけて出産を押さえた時に巻いた帯が由来となっているのではないかと思うのだが・・。

センニンソウ

草茫々の畑の土手を払っていると、藪の中に白い可憐な花が咲いているのが目に入った。刈払機を停めてGoogle Lensで調べてみた。「センニンソウ」のようだ。

センニンソウの花?

センニンソウは国内どこにでも生えている雑草みたいだが、ここでこうして花を見るのは初めてだった。よく見ると花は蔓に咲いている。その蔓はヘクソカズラと同じようだ。周りにはヘクソカズラも蔓延っている。だから、これまでここを刈っている時は、ヘクソカズラだと勘違いしていたのだ。

センニンソウの別名は「馬喰わず」「牛の歯こぼれ」、馬は食べない、また牛の歯が抜けたというような由来がある毒草みたいだ。

センニンソウヘクソカズラのどちらも、絶やすことの困難な、刈払機に絡みつくやっかいな雑草だが、花は可愛い。目を休ませてくれる。プラスマイナスゼロか・・。

ヘクソカズラの花