八満宇佐宮御託宣集によると、隼人の乱の時隼人は、奴久良、幸原、神野、牛屎、志加牟、曽於乃岩城、比売乃城の七つの城に立て籠ったとされている。
一方、國分の古蹟などには、熊襲梟帥の種族の居城として隈(久満)崎、平隈、富隈、獅子隈、笑(咲)隈、恋隈、星隈という七隈があったと伝わっているということが記されている。
双方の名前を見ると、隼人の七つの城は、奈良期にもあったであろうと思われる名である。ところが、熊襲七隈は、恋とか富とか星とか、何とも洒落た名である。古代にあったとは思えない。江戸期以降に付いたと思うのが自然ではなかろうか。
こうしたことからも、日本武尊が拍子橋で熊襲の頭目、川上梟帥を突き殺し、その四肢をバラバラにして埋めたなどという霧島市に伝わる話は、隼人の乱の出来事が、江戸期以降に、日本武尊の熊襲征伐にすり替わっていったものではないかと思う。