関白陣

雨の日は、農作業を休んで温泉に行くことが良くある。

何時もは、地元霧島市の日当山や安楽の温泉に行くのだが、この前は少し足を延ばして、伊佐市の針持温泉に行ってみた。透明ですべすべした湯で「つるつる美肌美人の湯」を標榜しているのも納得だった。

針持温泉

その大浴場の湯口に「関白陣」の銘があった。由来があるのではと思い、受付に聞いたところ「向こうの休憩室に説明書きがあります」と教えたくれた。

針持温泉の関白陣由来説明板

確かに説明書きがあった。しかし、少しかすれたところがあちこちあって読みにくい。しかし、リアリティがあり、面白い内容であることは分かるので、自分なりに次のように読み取ってみた。

関白陣の由来

大口城主新納武蔵守忠元は、秀吉が大口方面に入ったと聞いて交戦するため、菱刈、曽木あたりは伊知地重康が、大口方面には忠元が陣を張った。

1587年5月20日秀吉の先発隊は、秀吉の人質となって機嫌をとっていた伊集院幸侃の案内でこの天堂が尾の頂上に陣をおいた。ここはさして高くないが大口市が全眺され、大口勢の動きが見てとれる格好の場所である。

忠元は、秀吉軍の食糧が無くなったと知って、米一俵を送り届け「この米で腹をふくらませ、大口に攻め込んでおいで」と伝えた。秀吉はその豪胆さに驚いた。

石田三成は、忠元に降参するように説得したが、忠元は「いくら島津喜寿姫が人質にされているとは言え、国のために死ぬのは何ともない」と言って手向かう態度をとったので、三成も秀吉も困った。秀吉軍は大軍とはいえども食べていないから戦えなかったのであるが・・。

義久公、義弘公からも「自分たちが降参したのだから忠元も降参する様」と使いが来た。忠元も主君のことばで仕方なく、5月26日天堂が尾に出向した。忠元も髪を剃り馬に乗って、羽月川は大洪水だったので、菱刈の方から天堂が尾に着いた。そして関白秀吉と会見したのである。

秀吉が陣取ったところは、東西約30メートル、南北60メートル位の草地で石垣がめぐらされ、その中に1メートル60センチメートル平方の盛土をしたところがある。ここは、細川や加藤や石田などの武将の陣跡と言い伝えられている。なお、南方に清泉が湧くところは軍兵の用水となったところだろうし、西や東の原野に軍兵がさぞかし、うようよしていたことと想像される。忠元は、秀吉と相対して酒を飲み、笑いこけていたと言う。敵の陣地へ来て平気で笑っている忠元を見て、熊本城主細川幽斉もあきれた。この田舎侍がと思い「口のあたりに鈴虫ぞなく」と、忠元の長いあごひげを冷やかす意味で和歌の下の句を言ったら、忠元はすかさず「上ひげをチンチロリンとひねり上げ」と、上の句を付け加えたので、文武にたけた武将であると皆感心したと言う。秀吉は長刀を与えた。

秀吉は「お前一人でわが秀吉軍と戦うか」とたずねると「義久公が兵を挙げればその先頭に立って、秀吉軍を攻め滅ぼしてみせます」と言ってのけた。秀吉も忠元には一目置く様になり、他の島津氏と同様の扱いをするようになった。この時から、この地を関白陣と言う様になった。

大正5年当時の青年団が碑を立てた。

大口市史蹟伝説誌より抜粋

関白陣の由来というより、秀吉に全く臆することなく渡り合った、新納忠元の人物像を説明したものと見た方が良いような内容であるが、それにしても痛快な感じがする。

この中で「忠元も髭を剃り」というのは、島津義久が剃髪して秀吉と会見したことに倣ってということだと思われる。また、即座に鈴虫の触角を上髭に結び付けて歌にするなどは、予てから余程、和歌に手慣れていたということだろう。ただ、島津義久が一番可愛がっていたとされる喜寿の命を軽んじているようなところがあるのは、少し腑に落ちない。

説明板を見た後、関白陣に行ってみたいと思い、受付に場所を聞いたところ「関白陣というバス停から上に行く道がある」と教えてくれた。

関白陣のバス停は、針持温泉から二つ目だった。そこから、林道を1キロメートル位登ったところが広場になっており、伊佐市教育委員会の「天堂ケ尾(関白陣)」という説明板があった。

伊佐市教育委員会の説明板

この説明板を見て「ここが忠元と秀吉の会見の場」と思ってしまったが、どうやらそれは早とちりだったようだ。

江戸期の薩摩藩の地誌「三国名勝図会」には、天堂ケ尾関白陣について

俗に関白陣と言う。天正15年(1587年)豊関白が薩摩川内の水引泰平寺から兵を向けた時の陣屋跡である。高い野岡で松の木の生い茂った広々としたところだ。北北東には大口城が遥かに見える。陣屋跡には東西14間(約25メートル)、南北(約67メートル)を削り平にして石垣が所々残っている。その中に5尺(約1.5メートル)四方位の土台を築いた所が関白の輿を置いた所だと言われている・・と説明しており、挿絵もある。

三国名勝図会の天堂箇尾挿絵(国立国会図書館デジタルコレクションから)

これを見ると、秀吉が陣屋を置いた関白営は天堂ケ尾の山頂で、平に削られ、中央には軍議場みたいなものも見える。

なお、ネットには「天堂ケ尾(関白陣)に行った」と投稿している人が何人もいるが、そのほとんどが山頂だ。

それでは、私が行った伊佐市教育委員会の説明板のあるところは何だったのか。

後で聞いた地元の人の話から推察すると「天堂ケ尾は、秀吉が陣を敷いたので関白陣と呼ばれるようになったのだが、秀吉が去り、時がたつにつれて山頂までの道は木々に覆われて、簡単に行けるところではなくなった。そのうち、途中まで林道が出来たので、そこに伊佐市教育委員会の説明板が設置されたのだろう。ところが、その後山頂に電波塔が出来て、車の通る道も整備されたので、山頂に関白陣の説明板が設置され、また途中には道案内板も設置された」ということのようである。

私は、情報不足で、伊佐市教育委員会の説明板が設置されている場所が関白陣だと思い込んでしまったのだ。

ただ、標高306メートルの丘全体が天堂ケ尾であり、関白陣であろうから、伊佐市教育委員会の説明板が設置されている場所も関白陣であることは間違いないだろう。山頂は、関白陣の中の秀吉が陣を置いた関白営ということになるようだ。

なお、三国名勝図会には、忠元について「忠勇絶倫、慷慨にして智謀あり、且つ和歌を善くす、本藩中興の戦功居多なり、其名海内に著はる。當時薩藩の名将を數ふるに、必ず稱首たり、豊関白西侵の時、其勇畧に憚り、特に其人質を取て帰る」と記されており、忠元のことを、忠義心、勇気が抜群であり、知略に優れ、和歌も嗜む、当時の薩摩藩の中でも一番に挙げられる名将であると評している。