竹下勇と久木村治休

東京原宿の竹下通りの名称は、大正末期の連合艦隊司令長官・海軍大将の竹下勇の邸宅があったことに由来するとも言われている。

鹿児島神宮境内入口のすぐ左側一角に「征清役従軍紀念碑」「三十七八戦役従軍碑」「三十七八戦役忠魂碑」が並んでいる。征清役は日清戦争明治27年(1894年)~28年)、三十七八戦役は日露戦争明治37年(1904年)~38年)であるが、このうち、征清役従軍紀念碑に海軍大尉竹下勇の名がある。

征清役従軍紀念碑には「明治27年に起きた日清戦争に勝利し、台湾を領有するなど戦果をあげたことは、祖先の助けや国民の忠義があったからだ。このことを当村従軍者の名を刻んで後世に残す」というようなことが刻まれている。当村とは、当時の西国分村、現在の霧島市隼人町の一部である。

竹下勇も西国分村出身で、明治2年(1869年)生まれ、海軍兵学校を80人中3番目の優秀な成績で卒業している。日清戦争当時は25歳だった。

竹下勇と並んで陸軍大尉久木村治休の名がある。

文久2年(1862年薩摩藩国父島津久光が幕政改革を企図して江戸に出向いての帰り、生麦村(現神奈川県)に差し掛かったところで、馬に乗った4人のイギリス人と行き合った。久光の行列は400人余りだったという。藩主の父である久光の行列がどういう意味を持つのか分からなかったのだろう。藩士が制するのにも関わらず4人は行列を割るように進んだ。そして、久光の駕籠に近づいた時、藩士数人が切りかかった。4人は逃げようとしたが、3人が切られ、うちリチャードソンは絶命している。

駕籠の前で、リチャードソンに一撃を浴びせたのは奈良原喜左衛門で、さらに逃げる途中で致命傷を与えたのが鉄砲隊の久木村治休だとされている。

幹部候補生の竹下勇が、若くして大尉になったのは分かる。しかし、生麦事件でリチャードソンに致命傷を与えた久木村治休が、陸軍大尉として日中戦争に従軍しているというのには、なかなか理解し難いところがある。事件の後、薩摩藩は幕府に「切ったのは、岡野新助という足軽だった。行列に割り込んできた異人を切って逃げた。行方を探索中である」と虚偽報告をしており、実際に切った藩士は不問にされたということのようだが・・。

霧島市隼人町の住吉墓地に久木村治休の墓がある。「参戦 戊辰役 西南役 生麦事件 薩英戦争 日清役 日露役」などの銘が入っており、没年は昭和12年(1937年)11月20日、享年95歳と刻まれている。

生麦事件の時が19歳、そして日露戦争の時が62歳である。若い時から老いの半ばまで戦役の中に身を置いていたことになる。亡くなったのは95歳、とてつもない長寿である。波乱の人生を送りながらも天寿を全うしているということが、墓碑から伝わってくるような気がする。

なお、久木村治休と竹下勇は、叔父と甥の関係である。